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聖書の語る“塩対応”
音声データ
聖書箇所
2024年11月13日(水)大学礼拝の聖書箇所
コロサイの信徒への手紙 4章2〜6節
はじめに
どうも皆さん、「いつくしみ!」
さて、今日のお話のタイトルはこちらです。「聖書の語る“塩対応”」。今日はですね、「塩」の話です。お塩。お塩の話をさせていただこうと思います。
はじめに皆さん、この「塩対応」っていう言葉、ご存知ですよね。どういう意味かと言われると、なかなか説明が難しかったりしますけれども、たとえば、サービス精神が感じられない対応といいますか、そっけなかったり、愛想がなかったり、冷たさを感じたりするような対応のことを、「塩対応」というように言うんじゃないかなと思います。2014年の「流行語大賞」としても選ばれたことがあります。当時、AKB48に在籍していた島崎遥香(ぱるる)――。彼女が、握手会とかに来てくれるファンの人たちに対して、何と言いますか、“愛想があまり感じられない”態度で接している様子が注目されまして、そういう振る舞いが「塩対応」だよねと表現されたことで、この言葉が一躍脚光を浴びることになったわけなのですね。
「塩対応」の由来
ところで、この「塩対応」という言葉――、どうしてこのように「塩」という言葉が使われているのか、皆さんご存知ですか? なんで、そっけなかったり、愛想がない態度で人と接することを「“塩”対応」というのか。「砂糖」でも「酢」でも「醤油」でも「味噌」でもなく、「“塩”対応」である理由……。それは実は、歴史を紐解いていきますと、なんと“相撲”の世界に起源があるということがわかったのですね。
相撲って、土俵に「塩」を撒きますよね。あれは、相撲を取る前に、土俵を「塩」で“お清め”するために行われているものなのですけれども……、土俵の上に「塩」が撒かれているということは、その土俵は、「しょっぱい」ということになりますよね。塩が撒かれたわけですからね。まぁ、実際のところは、どんな味がするのか僕は舐めたことがないので分かりませんけれども、とにかく、「しょっぱい」らしいのですよ。
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そうしますと、相撲で負けたほうは、土俵に倒れて、その「しょっぱさ」を味わう、ということになりますね。それで、そこから、相撲の世界では、土俵に倒されてばかりいる“弱い”お相撲さんのことを、「しょっぱい」というように揶揄するようになったということなのですね。
その後、その「しょっぱい」という言葉は、他の格闘技(特にプロレス)の世界にも波及していくことになって、「おもしろくない」「つまらない」試合のことを「しょっぱい」と表現するようになります。それがいつしか、日常生活でも使われるようになっていきまして、接客とかのような対人関係を表す言葉として、「しょっぱい対応」、つまり、面白みがなくてつまらない、サービス精神が感じられない対応のことを「塩対応」と呼ぶようになっていった、ということらしいのですね。
塩は動物にとって必要不可欠
さて、それにしましても……、このように、「しょっぱい」から「塩対応」へと、じつに興味深い変遷を辿ってきた、この「塩」に関する言葉なのですが、ここまでのお話だけだと、どうも「塩」というのは、相撲やプロレスで言うところの「しょっぱい」にしましても、あるいは、先ほどの「塩対応」という言葉にしましても、なんとなく“マイナス”な印象ばかりが残ってしまうような感じがしますよね。「弱い」とか「つまらない」とかっていう意味ですからね。この他にも、「塩」に関する“良くないイメージ”の言葉というのは、日本語の中にいくつかあります。たとえば、元気がなくなっている様子を表す「青菜に塩」とか、あるいは、災難の上にさらに別の災難が重なることを表す「傷口に塩」とかですね。いずれの場合も、やはり、「塩」という言葉を“ネガティヴ”な感じで使っていることわざであると言えます。
しかしながら! 皆さんご存知のことと思いますけれども、この「塩」というものは本来、我々人類を含むほとんどの動物にとって、まさに生きていく上で絶対に無くてはならないものなのですよね。人間の場合、塩分不足になると、たちまち身体のいろんな部分が不調をきたすようになります。だから、今年の夏もそうでしたけれども、熱中症にならないように、適度に塩分を取るのが大事だと言われているのですよね。
そもそも、僕らのように、こうやって陸で生活している、いわゆる「陸生動物」たちの祖先というのは、何億年前という大昔に、海から出てきたわけですけれども、実は、その時点で、彼らは、「塩を追い求めながら生きていく」ことを覚悟しなければならなかったわけです。海の中で生活していたときには、有り余るほど“塩”があったわけですからね。でも、そんな恵まれた故郷である「海」を捨てて、我々の祖先は陸地に上がってきてしまった……。そうすると、あらま!陸地には「塩」が無い!ということで、我々「陸生動物」にとっては、「塩」というものはめちゃくちゃ貴重なものになったわけです。
肉食動物たちは、ほかの動物たちを食べることで、その肉とか血の中に含まれている塩分を摂取することができます。でも、じゃあ草食動物はどうしているのかと言いますと、じつは彼らは、「岩塩」などを求めて、旅をして、それをかじったりペロペロしたりすることで、塩分をとっているのですね。あるいは、他の動物たちがしたオシッコ。そのオシッコが乾いたところを舐めることによっても、塩分をとることができるそうです。そう考えますと、塩というのは本来は、それくらい頑張って得ようとしなければならないものなのですね。
人類史における「塩」
僕ら人間の祖先も、かつて、狩猟を行なっていた時代には、動物の肉を食べて塩分を接種できていたのですけれども、農耕が始まってからは(野菜とか穀物とかでは塩分がとれないですからね)、なんとか「塩」を得るために、いろいろと工夫をしなければならなくなりました。そこで編み出されたのが、海の水を蒸発させて塩を作ったり、あるいは、地面の中の岩塩を掘り起こしたりする方法だったのですね。
そのような人類の歴史における「塩」の発見というのは、まさに革命的なことだったわけでありまして、人々はその後、塩をただ摂取するだけでなく、お肉や魚が腐らないようにするための“防腐剤”として塩を使ったり、時には、薬の代わりとして使ったり、あるいは、古代ローマでは、兵士たちのお給料として「塩」を提供したりもしていました。実は、「お給料」という意味の「サラリー(salary)」という英語は、元々は、ラテン語の「sal(塩)」に由来している言葉なのですけれども、それは今お話した、ローマの兵士たちがお給料として「塩」をもらっていた、ということに由来しているのですね。
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更には、「塩」にはなにか不思議な力があるということで、先ほども相撲の話の中で触れましたけれども、「塩」というものを、宗教的に清い、聖なるものとして扱うようにもなっていったのですね。今回はあえて触れませんけれども、キリスト教のこの聖書の中にも、「塩」に関するお話はいろいろと書かれていたりします。
料理の世界でも、当然のことながら、塩は欠かせないものとなっていきます。苦みや臭みを抑える効果があるのはもちろんのこと、防腐剤として塩が使われることになったおかげで、世界各地で様々な料理が生まれることになりました。今の時代、「塩分過多」とか「減塩」とか言われるほどになっていて、健康に気を使っておられる方々からは、少し避けられている感のある「塩」ですけれども、これまでの人類の歴史においては、実は「塩」というのは、ものすごく重要な役割を担ってきたのであって、そしてこれからも、我々人間にとっては無くてはならないものであり続けるのだ、ということを覚えておきたいと思うのですね。
塩で味付けされた言葉を
今日の聖書の箇所で、こんな言葉がありましたね。コロサイ書4章6節のところ。「いつも、塩で味付けされた快い言葉で語りなさい。」 直訳すると、「あなたたちの言葉は、いつも恵みによって、塩で味付けされたものであれ」という感じになるのですけれども、まぁこれだけを読んでも、いまいち良く分かんない……。なんか、“しょっぱい”言葉で喋れってことかな?などと思ってしまいそうですけれども、ここまでのお話を踏まえれば、そうじゃないっていうことが自ずと分かってきますよね。
塩にはいろんな役割があるということを、聖書の時代の人々は、日常生活において良く理解していただろうと思います。おそらく、僕ら以上にね。苦みや臭みを抑えるだけでなく、防腐剤、消毒、薬、お清め……、そういう様々な目的のために使う、とても“貴重なもの”なのだというように認識していたはずです。
なので、そうすると、ここで言われている「塩で味付けされた言葉」というのは、絶対にマイナスな意味ではない。何かしら聞く人にとって“プラス”になる……そういう言葉を語るべし、という意味で理解すべきだと思うのですね。でも、具体的にどういう意味かは分からない。この手紙を書いた本人しか分からないですね。
ただし、注意しなければならないのは、相手を喜ばせたり、相手の機嫌を取ったりするような、いわゆる「神対応」をいつも心がけましょう――、ということでは決してないってことですね。頑張って、無理して、明るく振る舞う……ということが求められているわけではない。冒頭でご紹介した、「塩対応」という言葉。これは、使われ始めた当初こそ、「つまらない」「愛想がない」というように“マイナス”な言葉として使われていましたけれども、今はむしろ、無理に背伸びしていなくて、自然な印象を与える、自分らしい――というような、ポジティヴな意味でも使われ始めていますよね。元AKB48のぱるるも、何かのイベントで記者からインタビューを受けた際に、「(10年前と比べて)今は(塩対応という言葉を)プラスなイメージで捉えてくれている世代が増えたみたいで、時代が追いついてくれたなと思います」と語っています。
おわりに
無理に笑顔でいようとしたり、明るく振る舞おうとしたりするのではなく、大切なのは、相手に対して正直であること。また、相手を尊重すること。そして、愛のある言葉を相手に届けること――。それがきっと、本当に大切な、聖書の語る「“塩”対応」なのではないかな、と僕は思います。
……それでは、礼拝を続けてまいりましょう。