
“ニケヤ”から一致を目指して行けや
音声データ
詩編・聖書日課・特祷
2025年1月19日(日)の詩編・聖書日課
旧 約 イザヤ書 62章1〜5節
詩 編 36編5〜10節
使徒書 コリントの信徒への手紙一 12章1〜11節
福音書 ヨハネによる福音書 2章1〜11節
特祷(顕現後第2主日)
全能の神よ、あなたは永遠のみ言であるみ子の受肉のうちに、まことの道を現されました。どうかわたしたちを導き、全人類の救いのもとである主に、すべてをゆだねさせてください。父と聖霊とともに一体であって世々に生き支配しておられる主イエス・キリストによってお願いいたします。アーメン
下記のpdfファイルをダウンロードしていただくと、詩編・特祷・聖書日課の全文をお読みいただけます。なお、このファイルは「日本聖公会京都教区ほっこり宣教プロジェクト資料編」さんが提供しているものをモデルに自作しています。
はじめに
どうも皆さん、「いつくしみ!」
さて、(我々聖公会を含む)世界の伝統的なキリスト教界では、現在、とても大切な期間を迎えています。それが、こちらです。「キリスト教一致祈祷週間」。
毎年、教会のほうに案内が送られてきていると思うので、名前だけは知っているという方もおられるかもしれませんけれども、これは、一言でいいますと、全世界的な規模のエキュメニカル運動の一つです。エキュメニカル運動……、つまり、キリスト教諸教派・諸教会の一致運動のことですね。
ローマ・カトリック教会の「教皇庁キリスト教一致推進省」と、東方教会やプロテスタントの諸教派から構成される「WCC(世界教会協議会)」、この二つの組織によって行われているものでして、毎年1月18日から25日までの約一週間を、この名前のとおり、キリスト教の一致、そして平和というものを、世界中のキリスト教会が共に祈り合う……、そのような期間として過ごすことを呼びかけているのですね。
「第1ニカイア公会議」から1700年
今年2025年の「キリスト教一致祈祷週間」のテーマは、ずばり、『ニケヤ信経(しんきょう)』です。いつも、聖餐式の中で唱えているものですね。一般的には、「ニケア信条」、あるいは、ちゃんとした名称だと「ニケア・コンスタンティノープル信条」と呼ばれているものですけれども、我々日本聖公会においては、慣例的に、「ニケヤ信経(しんきょう)」と呼ばれています。
どうして、今年のテーマとして「ニケヤ信経」が選ばれたのか。パンフレットの中に解説が書かれていましたので、そちらを読んでみたいと思います。
「今年2025年のキリスト教一致祈祷週間の祈りと黙想は、北イタリアのボーゼ修道共同体の兄弟姉妹たちによって準備されました。今年は、西暦325年にコンスタンチノープル近郊のニケアで最初の公会議が開かれてから1700年目にあたります。」
……そうなのです。実は、今年2025年という年は、キリスト教の歴史上、最初の“公会議”として数えられる、いわゆる「第1ニカイア公会議」というのが開催されてから、ちょうど1700年という節目の年なのですね。
1700年って、凄いですよね。世間では、「50周年」とか「100周年」とか、そういうのが毎年いろいろとね、祝われていますけれども、でもさすがに「1700周年」なんていうのは、ほとんど聞いたことがないですよね。それだけでもう、キリスト教という宗教が築いてきた歴史の奥深さを実感させられるわけですけれども――。
その「第1ニカイア公会議」が行われた1700年前、西暦325年というのは、キリスト教の信仰がローマ帝国内で認められて間もない時期ですね。かの有名な『ミラノ勅令』の直後、ようやく差別と迫害の時代が終わって、キリスト教徒たちに平和と自由が訪れた……そういう時期の話なのですが、その頃はまだ、キリスト教という宗教は、一応、公的には“一つ”の状態だったと言えます。細かな考え方の違いなどはあれど、信仰共同体を二分するような、そういう大事件に発展するというようなことは、まだその頃には無かったわけですね。
「ニケヤ信経」という共通の遺産
しかし、キリスト教の神学が発展してくる中で、どうしても避けては通れない難題にぶち当たることになった。すなわちそれは、「イエス・キリストと父なる神」、この両者の関係についてですね。細かな説明をし始めるとキリがないので、今回は省略させていただこうと思うのですけれども、まぁ簡単に言えば、「イエス・キリストは、父なる神が造った“被造物”なのかどうか」という部分で、議論が巻き起こったわけです。それで、その問題を解決するために、「第1ニカイア公会議」は召集されることになったのですね。
結局どちらが優勢になったかと言いますと……、いま、我々が唱えている「ニケヤ信経」の内容のとおりですね。イエス・キリストは被造物ではなく、「造られず、生まれ、父と一体です」という考え方が“正統”とされるようになっていったわけです。語弊を恐れずに言うと、どっちが正しい、という話ではないのです。「第1ニカイア公会議」で、「イエス・キリストは神の被造物だ」という考えは退けられることになったわけですけれども、
次第にキリスト教は、その“正統”という枠組みの中においても、分裂を繰り返して、多くの教派が生まれる結果にはなりました。我々聖公会も、そのうちの一つですね。しかし、そのような“分断と対立の歴史”を真摯に振り返って悔い改めるようになった今この時代において、実は、どの教派の教会でも「ニケヤ信経」だけは一緒に唱えている(若干、西方教会と東方教会とで内容に違いはあるが)という事実を、キリスト教界は、誠に素晴らしいこととして受け止めているわけです。そして、そのことを、「1700周年」という節目の年に記念し、教会の世界に一致と平和がもたらされるよう、世界全体で共に願い祈り合うことが、まさしく、今年の「キリスト教一致祈祷週間」では呼びかけられているのですね。
復活祭の日も同じ!
ちなみに、第1ニカイア公会議では、イエス・キリストの神性に関することだけでなく、イースター(復活祭)の日程の決め方についても定められたのですが、西方教会では「グレゴリオ暦」が使われる一方、東方教会では「ユリウス暦」が使われるという暦の違いのせいで、毎年、“西”と“東”とでイースターの祝われる日がずれる、ということが起こってしまうのですね。なので、西方教会では「Happy Easter!」と盛り上がっていても、東方教会では、まだイエス・キリストの受難を覚えて少し暗い雰囲気が続いている……ということがあるわけです。
でも!今年はなんと(まったくの偶然なのですが)、西方教会と東方教会、どちらも同じ「4月20日」に、復活祭をお祝いすることができるのですね。まぁ、数年に一度は、そういうこともあるのですけれども、しかし、「第1ニカイア公会議」からちょうど1700年という記念すべき年に、西方教会と東方教会とが、本当に不思議な巡り合わせで、おんなじ日にイエス・キリストの復活をお祝いすることができる――。こんなに素晴らしい出来事は他に無いんじゃないかなと思うのですね。
細かい考え方に関しては、もちろん違う部分が結構あるけれども、それでも、同じ唯一なる三位一体の神を信じ、また、神である御子イエス・キリストの復活の出来事を共にお祝いしようとしている仲間が、世界中にたくさんいる……。その恵みを、今年はしっかりと心に留め、また、幸せと喜びを味わいつつ、世界の一致と平和を祈る一年として過ごすことができればと僕は思っています。
最初のしるし 〜「カナの婚礼」〜

今日の福音書の箇所は、ヨハネによる福音書に収められている、いわゆる「カナの婚礼」という物語が選ばれていました。“水をぶどう酒に変える”という奇跡を、イエスは「最初のしるし」として行なった……、そのようなお話でしたけれども、この箇所はまさしく、婚礼(結婚)という出来事が象徴しているように、“異なるものが一つのものへと変わっていく”、その喜びが描かれている箇所であると言えると思います。
ここに登場する、花婿と花嫁(実は、花嫁は出てきていないのですけどね。間違いなくその場には居たはずです)。彼女たちは、それまで、別々のところで、別々の人生を歩んできた。どんな風にして、二人が出会い、結婚することになったのかは分からないのですけれども、この場面において、その二人は、多くの人々の前で、結婚の契りを交わし、一つの共同体として歩んでいくことになったわけです。
実に興味深いことなのですけれども、この物語において、イエスは“脇役”として登場しています。主役は、花婿と花嫁ですからね。その式の途中で、ぶどう酒が無くなる(足りなくなる)というハプニングが起こり、イエスはお母さんのマリアに促されて、水をぶどう酒に変えるという奇跡を起こしたわけですけれども、そんな凄いことを行なったにもかかわらず、イエスはあえて、人々の注目を受けようとはせず、まるで何事もなかったかのように、一人の列席者として食事を続けたのですね。何度も言うように、この場面における主役は、花婿と花嫁だからです。
ここには、イエスが二人のことをお祝いしているというような描写は見られませんけれども、では、彼は二人のことを祝福していなかったのか。いやいや、そんなことはない。むしろ、このように、お祝いムードに水を差すことなく、縁の下の力持ちとして、彼女たちのことをサポートしているところに、イエスの気持ちがはっきりと現れていると言えるのではないでしょうか。
異なる人生を歩んできた二人が、“一つ”の輪の中で愛し合い、支え合って生きていく――。そのことを、イエスは、そして神は、共に宴の席で喜んでくださるのだ……。そういうお話として、この『カナの婚礼』の物語を読み解いてみても良いのではないかと思うのですね。
おわりに
人類の歴史は“分断の歴史”であると言えると思うのですけれども、考えてみますと、我々人類は原初のときから、“一つ”であったことなど一度たりとも無かったのではないかと想像します。アダムとエバの物語が表してくれているように、人間は最初から、異なる者同士の交わりによって歴史を築いてきたわけです。
キリスト教の歴史も同じです。冒頭で、「第1ニカイア公会議」のことをお話した際に、それまでは、公的にはキリスト教は一つだったのだと言いましたけれども、その内実は、結構混沌としていたのですよね。聖書にも書き残されているように、教会は早い時期から、パウロ派とか、アポロ派、ペトロ派などのような感じで、いろんなグループに分かれていました。ですから、キリスト教の始まりも、決して完全な“一つ”の共同体からスタートしたのではなく、バラバラな状態から始まったのだと言えるわけです。
それが、政治的な思惑も影響しながら、「第1ニカイア公会議」以降、無理矢理“一つ”になろうとして、その結果、異なる主張をする者たちを排除する……という悲劇を、キリスト教は繰り返してきたわけですけれども、そのような排除の歴史がいかに悲しいものであったかということを、現代のキリスト教は、悔い改めをもって真摯に受け止めようとしているのですね。そして、同じ考え、同じ主張で統一された共同体ではなく、異なる者同士が、互いに尊重し合いながら、緩やかな“一つ”の世界を共に形作っていこうという、そういう“新たな一致”を、教会は目指し始めたわけです。
その歴史的な転換点に、今、我々は立たされています。この「2025年」という(キリスト教界にとって)特別な一年を通じて、教会から世界へと、一致と平和の素晴らしさを発信していく時となることを、僕は心から願っていますし、人と人とが手を取り合い、共に生きていこうと呼びかけ合う、その輪の中に、必ずや、イエスも一緒にいて喜んでくれていると信じて、この「キリスト教一致祈祷週間」から新たに、神の指し示される道を歩んでいければと思っています。
……それでは、礼拝を続けてまいりましょう。