思い出して、でも忘れて!
音声データ
聖書箇所
2024年6月26日(水)大学礼拝の聖書箇所
詩編 25編1〜11節
はじめに
(はじめに『Remember Me』を聴く)
どうも皆さん、「いつくしみ!」
というわけで、今日は最初に『Remember Me』という曲をお聴きいただきました。皆さん、ご存知ですよね? 2017年に制作されたディズニー映画の主題歌です。
Remember Me
この“Remember Me”という言葉は、日本語に翻訳する場合、主に、2つの言い方ができるのですよね。一つは、「(わたしを)覚えていて」という意味。言い換えるならば、「(わたしを)忘れないで」というようになります。つまり、「わたし」という情報を「記憶しておいて」という感じになるのですね。
もう一つは、「(わたしを)思い出して」。……皆さん、この違い、分かります?「覚えていて」と「思い出して」の違い。「覚えていて」という場合は、“新しい情報”を「記憶しておいて」という感じになるのですけれども、「思い出して」という場合は、“すでに頭の中にあるはずの情報”を「よみがえらせて」ということになるわけです。外国語って面白いですよね。おんなじ言葉でも、それを他の言語(たとえば日本語)に翻訳しようとすると、若干のニュアンスの違いが出てくるのです。
先ほどお聴きいただいた“Remember Me”の歌詞の中でも、その使い分けがなされているのですね。ある部分では、「もう『さよなら』を言わないといけない」、「遠くに行かなくちゃならない」(これは、『リメンバー・ミー』という映画の内容から言えば、「この世を去る」、「天国に行く」ということを暗に示しているわけですけれども)、だけど、“Remember Me(どうか、わたしのことを覚えておいて/忘れないで)”――というように歌われています。
しかし、また、ある部分では、Remember Meの意味が変わります。「悲しいギターを聴くたびに」、「わたしたちの愛が続くように」(これは、すでに“お別れ”したあとのことを言っているものと思われるのですが)、離れ離れになったあとでも、“Remember Me(どうか、わたしのことを思い出して/わたしという記憶をよみがえらせて)”――というように歌っているのですね。すごく美しい歌だなぁと思います。
詩編 25編の“Remember Me”
さて、今日の礼拝のために選んできた聖書のテクスト、旧約聖書の詩編25編1〜11節というところですけれども、この『詩編』というのも、実は“歌(うた)”なのですね。古代イスラエルの人たちが、礼拝の時とか、あるいは何かお祭りの時とかに歌ったとされる歌を、いろいろとオムニバス的な感じで一つにまとめたのが、この『詩編』と呼ばれる書物なのです。
今回はその詩編の25編を読んでいるわけですが、この中にも、“Remember Me”が歌われています。それは、6〜7節のところ。「わたしの若いときの罪と背きは思い起こさず/慈しみ深く、御恵みのために/主よ、わたしを御心に留めてください。」
この最後のところに、「主よ、わたしを御心に留めてください」というようにありますよね。「神さま」というお方は、当然、「神さま」であるわけですから、我々人間と違って、“何かを忘れる”ということはない――そのように信じられています。でも、この詩編の作者は、「神さま、あなたは私たちのことをお忘れになるようなお方ではありませんけれども、それでも、どうか、わたしのことを御心に留めてください(覚えていてください)」というように歌っているわけなのですね。ここには、この詩編の作者が持っている、“祈りの強さ”というものが表現されているように感じられます。
神さま、忘れて!
でも、この箇所には一つ、興味深いことが書かれてあります。それは、今お読みした6〜7節のところなのですけれども、こんな一文が書かれていました。「わたしの若いときの罪と背きは思い起こさず。」
これ、面白いですね。神さまは、僕ら一人ひとりのことを、みんな覚えておられる。どんな些細なことだって、全部覚えてくださっている。たとえば、誰も他の人が見ていないようなところで、誰かに親切にした……。あるいは、誰も見ていないようなところで、道端に落ちているゴミを拾った……。誰も気づかないような形で、募金に協力した……。ほかにも、人知れず傷ついている、苦しんでいる、悩んでいる、落ち込んでいる……。そのような、“光”が当たらないようなこと、公には知られていないようなことですら、唯一、神さま“だけ”はちゃんと見てくださっていて、心に留めてくださっている――。そのような信仰がキリスト教にはあるわけです。
ただ、僕らが表に出していないことって、そういうことだけじゃないですよね。なんか、悪いことしちゃった……とか、人に意地悪なこと言っちゃった……とか、あるいは、「あの頃は自分も随分とんがってたな、反抗期だったしな」みたいな、そういう忘れたい記憶っていうものもあると思うのです。でも、残念ながら、神さま“だけ”は、そういうことも全部覚えておられるわけですね。
やめて!神さま、お願い!どうか忘れて!……そういう切実な、心の叫びのようなものが、この言葉からは伝わってきます。聖書を書いた人(聖書はいろんな人の手によって書かれたのですが)って、皆、まっすぐ神さまを信じていて、悪いことなんて一つもしない、そういう清廉潔白な人なのかな?とイメージしてしまいがちですけれども、実はこんな風に、「わたしの若いときの罪と背きは思い起こさず」……、つまり、「いやぁ、神さまぁ、わたしのこと、全部覚えておいていただきたいとは思っているのですけれども、でも、あの、あの頃の、ちょっとわたしが“ワル”だった時の頃だけは、忘れていただけないですかね?」みたいなことを願っちゃう、そういう人も中にはいたんだと考えますと、この『聖書』という書物が、非常に身近な感じに思えてこないでしょうか。なんか親近感湧きますよね。あ、「神さまを信じる生き方」って、こんな感じで良いんだぁみたいな、ね。
おわりに
そういうわけで、今日は“Remember Me”というキーワードをもとに聖書のお話をしてまいりましたけれども、ここで一つ、皆さんにも、覚えてお祈りしておいていただきたいことがあります。
この聖堂の、皆さんから見て、右側のほうに、扉が一つありますよね。ここには「小聖堂(小礼拝堂)」という小さい部屋があるのですけれども、実はいま、このお部屋の中に、お一人のご遺体が棺に収められて安置されています。一昨日、6月24日に亡くなられた、この教会に繋がっておられた方のご遺体です。今日のお昼に、ここに運ばれてきて、納棺式(ご遺体をお棺に納める式)を行いました。今週、お葬式をこの場所で行う予定になっています。もう暑いですからね、涼しくしておかないとご遺体の状態が悪くなってしまうので、いま、隣のお部屋はエアコンをしっかりきかせて涼しくしています。
キリスト教の教会といいますと、皆さん、どうしても「結婚式」とか、あるいは、さすがに柳城の皆さんだと、こういう普段の礼拝をイメージするかなと思いますが、実は、「お葬式」も結構な頻度で行われるのですね。キリスト教は、人が生まれてから死ぬまで、この地上におけるすべてを見守ってくださっている、そんな神さまを信じる宗教です。こちらにいらっしゃる方も、きっと、最期の時まで神さまに平和を祈りながら、天国に旅立っていかれたことと思います。
良いことばっかりな人生、というわけではなかったはず。辛いこともたくさん経験してこられたでしょうし、一人、悩み続けたこともあったことでしょう。ずっと周りの人には隠してきたということもあったかもしれません。でも、それらをすべてご存知である神さまに、あらゆることをお委ねして、天国へと旅立たれました。キリスト教における「人生の終わり」というのは……、この世に最後に残るものというのは……、そう考えますと、恐怖や不安ではなく、「信頼」なのだと、そう言えるのではないかと僕は思うのですね。
“Remember Me”……。私のことを覚えていてください。忘れないで、思い出してください。この、最終的で究極的な“願いの言葉”、最後のわがまま――。この言葉を誰かにお願いできるような、そういう人との繋がりを、また神さまとの繋がりを、これから先、皆さんと一緒に、築いていくことができればと願っています。
……それでは、礼拝を続けてまいりましょう。