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あ、ぼく実は「神の子」です

説教音声データ

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詩編・聖書日課・特祷

2022年12月25日(日)の詩編・聖書日課
 旧約聖書:イザヤ書52章7~10節
 詩編:98編1~5節
 使徒書:ヘブライ人への手紙1章1~12節
 福音書:ヨハネによる福音書1章1~14節
特祷
全能の神よ、あなたは独りのみ子に人性を取らせ、この時、清いおとめから生まれさせてくださいました。どうかその恵みによって、再び生まれ、神の子とされたわたしたちを、常に聖霊によって新しくしてください。父と聖霊とともに一体であって世々に生き支配しておられる主イエス・キリストによってお願いいたします。アーメン

下記のpdfファイルをダウンロードしていただくと、詩編・特祷・聖書日課の全文をお読みいただけます。なお、このファイルは「日本聖公会京都教区 ほっこり宣教プロジェクト資料編」さんが提供しているものをモデルに自作しています。

はじめに

 皆さん、メリークリスマス!クリスマスおめでとうございます。名古屋聖ステパノ教会の皆さんとご一緒にイエス・キリストの御降誕をお祝いできるのを楽しみにしておりました。本日お話を担当させていただきます、柳川真太朗と申します。皆さん、どうぞよろしくお願いいたします。
 おそらく皆さんの中には、「なんで今日は、この何処の馬の骨かも分からん“前髪金髪牧師”の話を聞かなあかんねやろ?」と思ってらっしゃる方もおられるのではないかと思います。「せっかくのクリスマスやのに」って、ねぇ。……すみません、我慢してください。

クリスマスっぽくない?聖書日課

 さて、「クリスマス」と言いますと、普通、我々の業界では、このような(画像参照)赤ちゃんイエスを中心に、母マリアや父ヨセフ、そして羊飼いや東方から来た博士たちが一堂に介しているという、そういう情景をイメージするものかと思います。新約聖書の「マタイによる福音書」と「ルカによる福音書」に記されている“イエス誕生の物語”をもとにして作られた作品であるわけですけれども、僕らの想像するクリスマスって、まぁこういう感じですよね。

https://www.twinkl.jp/teaching-wiki/nativity-story より

 先ほどの特祷の言葉にもありました。「全能の神よ、あなたは独りのみ子に人性を取らせ、この時、清いおとめから生まれさせてくださいました。」……これですよね。神の子イエス・キリストが、マリアという一人の女性を通じて、人間としてこの世にお生まれになった。そのことを覚えるのが、クリスマスという日の中心的な意義だと思います。
 ところが……なんですね。今朝の、この降誕日のために選ばれた聖書日課は、いずれの箇所も、そういう“いかにもな”クリスマスの雰囲気とはほど遠い、ちょっと小難しい内容となっていたわけなんですよね。毎年、降誕日にはこれらの箇所が選ばれているようですけれども、正直言うと、「これ、毎年この聖書日課で説教するの結構キツイやろなぁ」って思ってしまいました。他教派の牧師で良かったーって。
 特に、使徒書として選ばれている「ヘブライ人への手紙」。……はっきり言って、ぱっと見、何書いてるかさっぱり分からん!しかも、何書いてるか分からん上に、更に困ったことがあるんです。と言いますのも、いま我々が読んでいるこの日本語に訳されたテクスト。実はこれ自体にも、様々な翻訳上の問題が見られるんですね。それもなんと、一番初めの1章1節のところから「異議あり!」と言いたくなってしまうような、そういう問題を抱えているのです。
 まぁ、今日は事前に、土井先生から「お話は15分くらいでお願いね」と言われておりますので、そういう“ややこしい話”に時間を割くのは止めておこうと思うんですけれども……。とにかく、このヘブライ書にしても、また福音書のテクストとして選ばれている「ヨハネによる福音書」にしても(こっちはこっちで内容が抽象的すぎて何が言いたいのか分からんのですが)、両方とも、the Christmas の聖書箇所とは言い難いような、そういう箇所やなぁ……というのが、初めて今日の聖書日課を見た時の第一印象だったんですね。
 しかしながら、今回、このお話を準備するにあたって、(詩編を含め)これら4つの聖書箇所とじっくり向き合ってみて気付かされたのです。「あぁ、これぞ降誕日に相応しい聖書日課だわ」と。まさに、目から鱗が落ちるような感覚を抱いたわけなんですね。

神の子イエス・キリスト

 さて、本日の新約聖書のテクストである「ヘブライ書」と「ヨハネ福音書」。この二つの箇所に共通しているキーワードを一つ挙げるとするならば、それは「神の子」という言葉ではないかと僕は思います。
 ヨハネ福音書の方では12節のところに「神の子」という言葉が出てきていますね。ほかには、「神の子」とは違う表現ですけれども、14節の最後のところにも「父の独り子」という言葉が見られます。
 一方、ヘブライ書の方では、「神の子」という言葉そのものが出てくるわけではないんですが、その代わりに「御子」とか「長子」という言葉が所々に使われています。
 それに、5節のところ、ご覧いただけますでしょうか。これは旧約聖書からの引用がなされている箇所なんですけれども、「いったい神は、かつて天使のだれに、/『あなたはわたしの子、/わたしは今日、あなたを産んだ』と言われ、更にまた、/『わたしは彼の父となり、/彼はわたしの子となる』と言われたでしょうか。[言いませんでしたよね、イエス・キリスト以外には]」というように、いわば反語表現を用いながら、イエス・キリストの「神の子」としての存在について述べられているわけです。
 こうして改めて読んでみますと、どちらのテクストも、マタイやルカのように、直接「クリスマス物語」を描いているわけではないけれども、しかし「神の子」であるイエス・キリストの出現に関して、誕生物語とは違った角度から語ろうとしていることがお分かりいただけるかと思います。

神の子という自己認識

 このように、言わば、イエス・キリストの代名詞として、幾度となく新約聖書の中で使われている「神の子」という言葉なんですが、実は、新約聖書の著者たちは、イエス“以外”のことを指して「神の子」と呼ぶこともあるんですね。
 これが、今日のお話の本題であり、また結論につながるトピックスなんですけれども……、ヨハネ福音書のほうの12節のところ、ご覧いただけますでしょうか。次のように書かれています。「しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた」と、こんなふうに書かれているんですね。ヨハネだけではなく、パウロの手紙にもマタイにもルカにも、そしてヘブライ書の中にも、同様の思想が見られます(ヘブ12:7ほか)。イエスに従う者は「神の子」なのだと、そう彼らは考えていたわけです。
 このような一種の「特権意識」というのは、キリスト教の歴史の中で、様々な影響を及ぼしてきました。そして多くの場合、そのような思想は、異教徒や他民族、他の国々に対する差別・迫害・攻撃といったコンテクストの中で旗印として掲げられてきたのです。「オレたちは神の子だ。ほかの連中はオレたちよりも劣った存在だ」ということでですね。今も、そういう思想を抱き続けている排他的なキリスト教信者たちが、世界各地に、この日本にも存在しています。そういう人々の言論に触れるにつけ、僕は非常に悲しい気持ちになります。「同じ聖書読んでるはずやのに、どうしてこうも偏った考えになっちゃうんだろうなぁ」って。
 新約聖書の著者たちが、イエスに従う者たちのことを「神の子」と呼んだ、その歴史的背景に目を向けて見るならば、本来「神の子」という言葉が“排他的な意味”を含んでいなかったことはすぐに分かります。それどころか、「神の子」と呼ばれた古代のキリスト教信者たちは、むしろ他の人々よりも“劣った存在”であったはずなのです。
 イエスという存在を失い、ユダヤ教からも離れ、各地に転々と小さな共同体があるだけの、言わば新興宗教だった古代のキリスト教。ローマ帝国がフッと息を吹きかければ、すぐに跡形もなく消えてしまうかもしれない、そういう弱小集団だったわけです。しかし、彼らキリスト教信者たちは、そんな弱々しい自分たちのことを大胆にも「神の子」と呼び合い、そうやって励まし合っていたということなんですね。「オレたち神の子なんだぜ!だから勇気を出して生きていこうぜ!」ってな感じですかね。
 これは、今回の旧約聖書のテクストにも通ずるところがあります(時間がないので手短にお話ししていきますが)。詩編98編とイザヤ書52章。この二つの箇所はどちらも、エルサレム崩壊とバビロン捕囚という、ユダヤ人の祖先たちにとって最も悲劇的な出来事が終息した後に書かれたものと考えられています。しかし、数十年にわたる敵国の支配から解放されたとはいえ、その後に残されていたのは、廃墟となったかつての都エルサレムだけでした。それに多くの者たちは、バビロンでの生活に慣れてしまって、今さら荒廃した故郷に帰りたいなんて思っていない。
 ですが、ほんの僅かな者たちが、エルサレムの復興という希望を胸に抱いていました。そのうちの一人、この52章を記した通称「第二イザヤ」と呼ばれる人物は、声高らかに次のように宣言したんですね。7節、「シオンよ、エルサレムよ、あなたの神は王となられた!」主なる神がエルサレムの王座に着座されたのだと言い放ったわけです。
 誰がどう見ても、廃墟。かつての繁栄の跡はどこにも見られない。終わった土地でした。しかし、そんなエルサレムを見ながら、第二イザヤは叫んだ、「主なる神が王としておられるではないか!」と。この精神が、のちに登場することになるキリスト教徒たちにも影響を及ぼし、自分たちは「神の子」だと自称させるに至ったのではないかと僕には思えてならないんですね。

おわりに

 「うぬぼれ」とも違う。「選民思想」や「優生思想」とも違う。“弱さ”ゆえの「特権意識」。これが、新約聖書に出てくる「神の子」という言葉の裏側に秘められている意味なのではないでしょうか。
 何も持っていないと思ってしまうかもしれない。他の人と比べて劣っていると感じる部分があるかもしれない。劣等感に心を埋め尽くされそう。もしそうなのだとしたら……「実は、自分は神の子です」くらい思ってても、良いんじゃないですかね。「自分は神様から愛してもらっています」「他の人たちは知らないだろうけど、僕は(私は)神様にとって特別な存在なんですよ」……それくらい大胆なこと考えていても、別にバチは当たらないでしょ、って思うんですよね。事実、そうですし。
 救いなんて無い。希望なんて無い。そう思ってしまうようなところに、救い、希望を見出させてくれたのが「イエスの誕生」という出来事でした。イエスは聖書を通して伝えてくれています。「私、神の子。あなたも神の子」。降誕日のこの日、改めて、自分たち一人ひとりが神様にとって、まさに「子ども」のような、かけがえのない存在であるという事実を、しっかりと心に受け止めたい。そう願います。
 最後に、本日の特祷の言葉をもう一度お読みしてお話を終わりたいと思います。「全能の神よ、あなたは独りのみ子に人性を取らせ、この時、清いおとめから生まれさせてくださいました。どうかその恵みによって、再び生まれ、神の子とされたわたしたちを、常に聖霊によって新しくしてください。父と聖霊とともに一体であって、世々に生き支配しておられる主イエス・キリストによってお願いいたします。アーメン」
 ……それでは皆様、良いお年をお迎えください。

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