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予期せぬサマリア人の愛が世界を一つにする(キリスト教一致祈祷週間)

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詩編・聖書日課・特祷

2024年1月21日(日)の詩編・聖書日課
 旧 約 エレミヤ書3章21節~4章2節
 詩 編 130編
 使徒書 コリントの信徒への手紙一7章17~23節
 福音書 マルコによる福音書1章14~20節
特祷(顕現後第3主日)
限りなくいます全能の神、天においても地においても万物を支配しておられる主よ、どうか慈しみをもって主の民の願いを聞き入れ、主による平安をこの時代にお与えください。主イエス・キリストによってお願いいたします。アーメン

下記のpdfファイルをダウンロードしていただくと、詩編・特祷・聖書日課の全文をお読みいただけます。なお、このファイルは「日本聖公会京都教区 ほっこり宣教プロジェクト資料編」さんが提供しているものをモデルに自作しています。

はじめに

 どうも皆さん、「いつくしみ!」
 新年最初の奨励担当ですね。先月(12月)は、いつもの第3週目の礼拝に加えて「クリスマス・イヴ礼拝」まで担当させていただきありがとうございました。今年度の担当は、残すところ(今日を含めて)3回となりましたけれども、振り返ってみますと、今年度は本当に幸いなことに、体調不良などで皆さんにご迷惑をおかけすることも無く、礼拝のご奉仕を続けてくることができました。感謝なことです。まぁまだ油断できませんけどね(笑)。なんとか年度の終わりまで、務めを全うできるように、きちんと体調管理していきたいと思っています。どうぞ皆さんも、ますます寒くなってきましたからね、ご自愛ください。

キリスト教一致祈祷週間

 さて、先週から今週にかけて、実は、世界のキリスト教では、非常に重要な期間を過ごしているのですが、皆さん、ご存知でしょうか。
 先週の18日から、今週の25日までの8日間のことを、世界の多くのキリスト教会では、このような期間(↓)として覚えて過ごされています。

 「キリスト教の一致」ということに関して、思いを向け、祈り合う一週間……ということなのですけれども、何が凄いって、この運動……、我々「日本聖公会」も加盟している「WCC(世界教会協議会)」という組織があるんですが、そのWCCに繋がる諸教会と、ローマ・カトリック教会とが一緒になって、全世界的な運動として行われているわけなんですね。WCCには、プロテスタントやアングリカンだけでなく、正教会や、アッシリア東方教会、ローマ・カトリックから分離して生まれたオールド・カトリックなども加盟していますので、西も東も関係なく、様々な教派・教会が、ともに「一つの“キリスト教”として歩んでいこうじゃないか」と手を取り合う、まさに“ボーダーレス”な運動なのです。

 この「キリスト教一致祈祷週間」という8日間を、では、どのような形で過ごすべきなのか、ということですけれども、実際のところは、国や地域、教派によって随分異なっているようです。
 日本では……正直言うと、あんまり重要視されていないっぽいですね。まぁ東京のほうでは、この「キリスト教一致祈祷週間」に合わせて、いくつか特別な礼拝が行われる予定のようですけれども(たとえば、カトリック教会の聖堂を会場に、プロテスタントの牧師さんが説教を担当するなど)、なかなかそのような機運は、日本のほかの地域には見られないようです。
 それでも、各教派のホームページなどを見てみますと、一応、お知らせとして「キリスト教一致祈祷週間」が行われますよというようなことが案内されていたりしますので、特段、大きなイベントが行われないというだけで、ちゃんと呼びかけはされているみたいなんですね。日本聖公会の代祷表にも、しっかり載っています。なので、あとはそれぞれの教会や教区次第……ということなのだろうと思います。

 せっかくの素晴らしい世界的な運動ですからね。この機会を存分に利用して、これから先、日本でももっともっと、教派を超えた結びつきが強められていったら良いなと僕は思っています。

世界の一致のため、キリスト教が一致を目指す

 ところで、この「キリスト教一致祈祷週間」では、その年ごとに、特別な“テーマ”が決められています。今年のテーマはこちらです。「あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい」(ルカ10・27)

 有名な言葉ですね。さて、これ誰が言った言葉でしょうか。イエス・キリスト……?実は、違うんです。
 たしかに、マタイ福音書とマルコ福音書では、イエスがこの言葉を語っています。しかし、ルカ福音書では、なんとイエスではなく、イエスと話をしていた一人の律法学者(律法の専門家)が、この言葉を言っているんですよね。多分これ、世界中の牧師さんたちが、引っかかって、「これは、イエス・キリストの言葉です」って説教の中で語っているんでしょうけれども、僕は引っかからないですよぉ〜。これは、“ルカ福音書”からの引用ですからね。イエスが語ったのではなく、律法学者のセリフなんですよねぇ〜。……という感じで、昨日は一人でニヤニヤしながら説教を作っておりました。
 まぁそれはともかくとして、今回、「キリスト教一致祈祷週間」のために設けられた、この「あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい」というテーマは、特にいま、僕らが生きているこの時代、グローバルな繋がりというものが重視されるこの21世紀において、すべての人々の間で大切にされ、また実践されるべき教えであると僕は思います。国や思想、宗教観など、あらゆる隔ての壁を克服して、それぞれの立場や事情を尊重し合いながら、ともに“人類”という一つの枠組みの中で平和を築いていく――。そのような目標が世界各地で掲げられているわけですけれども、そのような流れの中にあって、まず第一に、我々「キリスト教」という宗教が、一つになることを目指すべく、「あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい」という教えを大切にしていく必要があると思うんですね。

一方通行の愛の結晶

 「一つになる」とか、「一致する」という言葉を聞きますと、我々はつい、「完全に同じでなければならない」ということをイメージしがちだと思います。実際、キリスト教の歴史においては、そのような、いわゆる「画一主義」というものを、現代に至るまで、長きにわたって引きずり続けてきてしまいました。他の思想や価値観を認めずに、「一つになれないのは、自分たち以外の連中が悪いのだ」というように、互いに互いを非難し合ってきたわけです。
 しかし、それが全くもって間違いであるということに、ようやく、我々キリスト教は気づくことができるようになったんですね。「一つになる」「一致する」というのは、決して、都合の良い者同士が繋がり合うことではなくて、実はむしろ、「一方通行の愛の結晶」である――。つまり、たとえ、その相手との関係が“自分の利益にならない”のだとしても、それでも、その相手に対して愛を向ける……。そのような「一方通行の愛」が、あらゆる人々、あらゆる共同体の間で実践されることで、自然と「一つになっていく」ものなのだということを、キリスト教は長い分裂と衝突の歴史の中で知ることができたわけですね。
 先ほどの主題聖句の箇所、ルカ福音書の10章27節の続きには、かの有名な「善きサマリア人のたとえ話」が語られています。今回の「キリスト教一致祈祷週間」のプログラムでは、主にその「善きサマリア人のたとえ話」の内容をもとに、「一つになる」「一致する」とはどういうことかが解き明かされているんですね。
 せっかくですので、今年のプログラムの今日の分、「4日目」の内容をご一緒に読んでみたいと思います(→資料配布)。

第4日「助けを必要としている人たちから目を背けることがありませんように」

【黙想】 道の向こう側を通って行った祭司とレビ人は、宗教上の正当な理由があって助けなかったのかもしれません。つまり、彼らはある宗教的儀式を行うことになっていたのかもしれず、もしその人が死んでいたのなら、儀式を汚してしまう危険性があったかもしれないのです。しかし、イエスはいくつもの場面で、つねに善を行う義務よりも、宗教上の規律を優先させる宗教指導者たちを批判しています。
 一致祈祷週間の聖書箇所の冒頭には、律法の専門家がどのように自分を正当化しようとしたかが書かれています。たとえ話に出てくる祭司とレビ人は、自分たちのしたことは正当化されると感じたことでしょう。キリスト者として、わたしたちはどこまで規範を超えられるでしょうか。時にわたしたちは、教会的、文化的条件によって近視眼的になり、他のキリスト教伝統の姉妹や兄弟たちの生活やあかしが明かしているものを理解できないことがあります。同胞であるキリスト者によって、神の愛がどのように明かされているかを理解するよう目を開くとき、わたしたちは彼らに歩み寄り、彼らとのより深い一致へと引き寄せられるのです。
 このイエスのたとえ話は、わたしたちに善を行うよう促すだけでなく、視野を広げるようにも促します。わたしたちは、何が善であり聖であるかを、信条や宗教的な世界観を共有する人々からだけでなく、自分たちとは違った人々から学ぶことも多いのです。よいサマリア人とは、多くの場合、わたしたちが予期していない人なのです。

 最後のところの、「よいサマリア人とは、多くの場合、わたしたちが予期していない人なのです」という結びの言葉が良いですね。ここでは、自分たちが何かを受ける側として、まったく予期していない誰かから与えられる――という意味の文章になっていますけれども、本来、この「善きサマリア人のたとえ話」というのは、自分が受ける側になるだけでなく、自ら“予期せぬ人物”として、自分とは異なる誰かのために奉仕をする、という教えであるはずですよね。善きサマリア人になるということは、同時に、誰かにとって“予期せぬサマリア人”であるべきだ、ということです。
 自分にとって都合の良い人に親切にするというのは、お互いにとって利益があって、すごく効率がいいように思います。けれども、もしその枠の中だけに留まるのであれば、その利害関係という枠の外で多くの存在を見捨てることにもなる。そうではなく、自分が関心を向けた“その人”に対して、ただ真っ直ぐに隣人愛を向ける(その人にとっては、まさに“予期せぬサマリア人”が現れたということになるでしょう)――、その「一方通行の愛」のネットワークが広がり続けることで、この世界は、まさに「一つ」になっていくのだと言えるわけです。そう考えますと、真の「隣人愛」というのは、隣人同士の愛ではなくて、シンプルに「隣人への愛」であると理解するべきなのだろうと思います。

おわりに

 最後に、今日の聖書日課で選ばれていた福音書箇所の内容を少しだけ振り返ります。
 イエスは、ガリラヤ湖で漁をする4人の男たちと出会います。そして、彼らに対して、イエスはこう呼びかけます。「わたしについて来なさい」(マルコ1:17)。まったく見ず知らずの人から声をかけられたら(しかも「ついて来い」と言われたら)、普通は警戒してしまいますよね。あるいは、よっぽど“ノリの良い人たち”だったとしても、「ついて行ったら、なにか良いことがあるのか?」と確認したくなると思います。
 でも、この4人の漁師たちは違ったんですね。「すぐに網を捨てて従った。」(18節)「父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して、イエスの後について行った」(20節)と書いてあるように、彼らはホイホイとイエスに従って行ったんです。
 予期せぬサマリア人の「隣人愛」というのは、これくらいの“腰の軽さ”が必要だと言えるかもしれませんね。メリット・デメリットを考える間もなく、スッと行動する。必要だと感じたから、やる。道の向こうで人が倒れている、だから助ける。そのスピード感が、一方通行の隣人愛を生み出し、予期せぬ誰かから、また予期せぬ誰かへ繋がりが広がり、やがて、本当の意味で、この世界は「一つ」へと近づいていくのでしょうね。
 ……それでは、お配りしたプリントの最後、「祈り」の文章をご一緒にお読みして、お話を終わりたいと思います。

【祈り】
主イエス・キリスト、
あなたとともに一致に向かって旅するとき
目をそらさずに
世界に対して大きく見開いていられますように。
わたしたちが人生を旅するとき
立ち止まり、手を差し伸べて、傷ついた人々をいやし、
それによって、彼らのうちに主の現存を感じることができますように。
あなたは、今もいつも世々に生き、支配しておられます。アーメン。

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