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生け贄?リリース?『遊戯王』の用語変更と原始キリスト教
音声データ
聖書箇所
2024年11月27日(水)大学礼拝の聖書箇所
ヘブライ人への手紙 13章7〜16節
はじめに
どうも皆さん、「いつくしみ!」
さて、相変わらずキリスト教と関係ない話から初めさせていただこうと思うのですけれども、……皆さん、『ポケポケ』やってますか!?
『Pokémon Trading Card Game Pocket』、略して『ポケポケ』ですね。いま、世界中でプレイされている、大人気スマホゲームです。先月の末頃から配信がスタートしたのですけれども、僕は最近、学生たちがやっているのを見て、「なんか面白そうやなぁ」と思って、先週からやり始めました。普段、ゲームは全然やらないんですけどね。試しにやり始めたら、見事にハマってしまいまして(笑)、毎日、夜、ベッドの中でひとしきりコレで遊んでから寝るっていうのが日課になっています。
この『ポケポケ』というゲーム。この名前のとおり、普通のポケモンゲームではなくて、ポケモン“カード”を集めて闘うゲームなのですね。ポケモンカードって……、息が長いですよねぇ。「えっ!まだ続いてるんや!しかも新しくスマホゲームまで出てるんや!」って、びっくりさせられました。だって、「ポケカ」って、学生の皆さんが生まれる前からあるわけですからね。
最初のポケモンカードが発売されたのが1996年なので、僕が小学校に入学した年(小学1年生の時)に売り出されたということになります。だから多分、その年のクリスマスプレゼントとかで、サンタさんから貰ってるのでしょうね。あの頃はもう毎日のように、小学校から帰ったらすぐ、ランドセル置いて、ポケモンカード持って、公園とか友だちの家とかで遊んでいた記憶があります。懐かしいですね。
『遊戯王』のルールの名称変更について
その「ポケモンカード」が発売されてから、2年ほど遅れるようにして出てきたのが、『遊戯王』です(1999年2月4日に第一弾発売開始)。これも、ずーっとありますよね。発売されてから20年以上経った今なお、『ポケモンカード』と『遊戯王』、この二つが、トレーディングカードゲーム界隈の先頭を走り続けているというのは、本当に驚くべきことだと思います。
『遊戯王』も、小学校のころハマってましたねぇ。特に、小学校高学年になってからは、“戦略”とかね、いろいろ難しいこと考えられるようになっていましたし、それに、その頃にはもう、弟(2歳下)も一緒にやれるようになっていましたからね。それこそ毎日、家でも他所でも、ずっと『遊戯王』で遊んでいたように思います。
ところで、今日のお話のタイトルなんですが、今回はその『遊戯王』にからめて付けてきました。多分、皆さんね、礼拝案内のポスターを見られて、「なんだこれ?」と思われたんじゃないかと思いますけれども、こちらですね。「生け贄?リリース?『遊戯王』の用語変更と原始キリスト教」。
最近、ふとしたことがきっかけで、最近の『遊戯王』がどんな感じなのか、知ることがありました。まぁ、「最近の」と言っても、16年くらい前の情報なのですけれども……。その16年前、当時2008年に、『遊戯王』のルールが大幅に変更されるということがあったらしく、その中で一部、ルールの“名称変更”がなされたそうなのですね。それによって、いくつかのルールの呼び方が変わったのですが、そのうちの一つが、この「『生け贄』という呼び方から『リリース』という呼び方への変更」だったのです。
以前、それこそ僕が小学生のころにプレイしていた時代には、強いモンスターカードを出すために、弱いモンスターカードを“墓地に送る”(つまり、捨て札にする)ことを、「生け贄」というように呼んでいました。弱いモンスター(のライフポイント、生命)を生け贄として、更に強いモンスターカードを召喚する……っていうことなのですけれども、その「生け贄」という言い方が、「リリース」という言い方に変わったということらしいです。
どうして、そのように「生け贄」から「リリース」へと呼び方が変更されたのか。その理由は、残念ながら明らかにされていません。と言うのも、公式(KONAMI)からの具体的な説明が無かったからなのですね。先ほど少し触れました2008年の大規模なルール変更(新エキスパートルール→マスタールール)が行われて、そのうちの一つとして、「『生け贄』のことは、これからは『リリース』というように呼びましょう」というように変更がなされただけだったので、一つ一つのルール変更の細かい事情というのは、わざわざ説明されなかったみたいなのですね。
生け贄の歴史と衰退
どういう理由で、「生け贄」から「リリース」へと呼び方が変えられたのかは分からない。でも、僕はこの話を聞いたときに、「あっ、これって今日の聖書の箇所と通ずるものがあるな」と思ったのですよね。
「生け贄」って、生きた動物を神への供え物としてささげることですよね。人類は大昔から、神に対して“生け贄”をささげてきました。この『聖書』の中にも、生け贄に関する記述はたくさん見られます。特に、旧約聖書がそうですね。「これこれの時には、この動物をこうやって生け贄としてささげなさい」みたいなルールが、いろいろと定められているのですよね。
人類は聖書の時代よりもずっとずっと前の時代から、たとえば水害が起これば、生け贄をささげ……、逆に天がまったく降らずに干ばつが起こったら、また生け贄をささげ……、更に、比較的平和な日々が続いているときにも、その日常が長く続きますようにと願って、やはり生け贄をささげる……、というようなことを繰り返してきました。時には、牛や羊などの動物だけでなく、人間が他の人間を生け贄として殺す、ということも行われてきたのですよね。
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なぜ、そんなことをしてきたのかと言うと、それは、自分たちにとって“最も価値の高いもの”を神にささげれば、神が自分たちのことを顧みてくださるからだと考えていたからです。神はちょっとやそっとじゃ、人間のほうを向いてくださらない。ならば、神が振り向くほどのものをおささげしようじゃないか!ということで、たとえば、動物であれば、傷のない最初に生まれた子どもとか、あるいは人間であれば、子ども、結婚していない女性などを“生け贄”としてささげて、天からの恵みを願う――というようなことをしていたわけです。
しかし、そうやって“宗教的な儀礼”のために、動物や、まして人間の命を奪うというのはどうなのか……という議論が、各地で沸き起こっていったのでしょうね。次第に、人間の犠牲は行われないようになり、また、動物の犠牲も、おそらく“生命”ではなく、“お金をささげる”ということに取って代わられるようになっていったようです。こうして、“生け贄”という宗教儀式は、少なくともキリスト教が支配的な世界においては失われることになったわけですね。
最も神に喜ばれる“いけにえ”
今回のテーマである、『遊戯王』のルール変更に伴う呼び方の変化も、多分、世界の『遊戯王』のプレイヤー人口が拡大していくにつれて、よりグローバルスタンダードに合わせる必要性というのが生じてきたのだと思います。それで、「生け贄」という、様々な問題を含む表現を避けて、「リリース」……つまり、「放す」「解放する」、「拘束を解いて自由にする」という表現に変えましょうという話になったのだろうと考えられるわけですね。
今日の聖書の箇所、ヘブライ人への手紙7章16節には、こんな言葉が書かれていました。「善い行いと施しとを忘れないでください。このようないけにえこそ、神はお喜びになるのです。」
人間は古くから、神の関心を惹くために、生き物の生命をささげてきた。それは、「生命」というものが“他に変えることができないほど価値の高いもの”だということを知っていたからですよね。なので、実はそれ自体は、すごく良い考え方だったのです。でも、宗教儀式というのは、必ずどこかで本質を忘れ、“形式的なもの”になっていくものなのですよね。“生け贄”という行為も、“形式”だけが重視されて、一人ひとりの生命の重さというものが軽んじられることがきっとあっただろうと思います。
そんな中で、この聖書の言葉は、とても大事なことを僕らに教えてくれているような気がするのですね。「善い行いと施し [……] このようないけにえこそ、神はお喜びになるのです。」 我々人間にとって、(誰かのために提供できる)最も価値の高いものというのは、「善い行い」と「(弱き者に対する)施し」なのであり、そして、そのような尊い“ささげもの”を自ら差し出していくことで、きっと、この世で様々なものに縛られて生きる人々を、まさに「リリース」(解放)へと誘っていくことができるはず――。そのように僕は思うのですね。
おわりに
というわけで今回は、『遊戯王』のルールの名称変更という出来事をヒントに、聖書のメッセージを味わってみました。今日で、今月11月の大学礼拝はおしまいですね。来週からは12月に入るわけですけれども、それと同時に、キリスト教の暦では「アドヴェント」という期間を迎えることになります。クリスマス、つまり、イエス・キリストのお誕生をお祝いする日までの、約4週間の日々を、教会では「アドヴェント」と呼んでいるのですね。
アドヴェントの期間中は、特に、自己を顧みつつ、新しい自分を求める気持ちを大切にしながら、クリスマスを待ち望むことが勧められています。そのような中で、今日の聖書の言葉にありましたように、皆さん一人ひとりの中で“最も価値の高い”心、言葉、そして行動を、誰かのためにささげられる……、そんな瞬間が訪れますように。そして、今年のアドヴェント・クリスマスの期節が、皆さんや皆さんの周りの人たちにとって、素晴らしい日々となりますようにと、心から願っています。
……それでは、礼拝を続けてまいりましょう。