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ぼくのニックネーム

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聖書箇所

2024年4月17日(水)大学礼拝の聖書箇所
 使徒言行録 11章19〜26節

はじめに

 どうも皆さん、「いつくしみ!」 チャプレンの柳川真太朗です。大学礼拝にようこそお越しくださいました。
 皆さん、もう、僕らチャプレンの名前を覚えてくれましたか? 今日、司会をしてくださっているのが、後藤香織チャプレン。そして、僕が、柳川真太朗です。後藤香織……、柳川真太朗……。後藤……、柳川……。まぁ、どちらもね、そんなに覚えづらい名前じゃないと思うので、ぜひ覚えていただければと思います。
 (ちなみに、後藤チャプレンに質問ですけれども、後藤チャプレンは、「みんなにこういう名前で読んでほしい」っていうの、あったりしますか?)

ぼくのニックネーム

 僕はですね、あんまり、「柳川さん」とか「柳川先生」みたいな感じで呼ばれるのが、好きじゃないんですよね。結構小さい頃から、周りの人たちにニックネームで呼んでもらっていたので、大人になった今でも、できれば周りからはニックネームで呼ばれたいなぁって思っているのです。
 これまでどんなニックネームで呼ばれてきたかなぁと、ちょっと振り返ってみたのですけれども、たとえば、「しんちゃん」とか、「やなさん」とか、「やんちゃん」、「やんこ」とか、いろいろありましたねぇ。まぁ、ほとんどは、いま挙げたように“自分の名前”に由来しているものばっかりでしたけれども……、そういえば一つ、これは秀逸なネーミングセンスだなぁと思ったあだ名がありました。それがこちら。「微調整」
 かつて、高校の頃に1年だけラグビー部に所属していたことがあるのですけれども、試合中によく、フィールド上でチョコチョコ細かく動いているように見えたらしいのです。自分がどのへんに立っていれば、上手くボールが受け取れるか……とか、相手の動きに合わせられるか……とか、そういうことを考えながらポジショニングをしているつもりだったのですけれども、それがチョコチョコとしていて、仲間からは面白く見えたんでしょうね。それで、みんなから付けられたあだ名が「微調整」でした。まぁ、ラグビーやってる時だけの名前でしたけどね。これを越えるあだ名は、後にも先にも無いだろうなぁと思います。

 皆さんはぜひ、「微調整」じゃなくて、「やなさん」とか、「しんちゃん」とか、そんな感じで呼んでいただけたら良いかなと思います。「しんたろう!」って呼び捨てにしてもらっても大丈夫です。そうやって、気軽にね、声をかけてくれると、僕は嬉しいです。

特別な呼び名の光と影

 さて、そのように、“ニックネーム”とか“あだ名”というようなものに関しては、その特別な名前で呼ぶことで、その人との心の距離というものをグッと縮めてくれる……、そういう不思議な力があるわけですけれども、ただし、気をつけなければいけないのは、もしかすると、そのニックネームやあだ名で呼ばれているほうは、その名前を嫌がっているかもしれない――という可能性があることです。
 昨今、この日本の教育現場・保育現場においては、「ニックネーム・あだ名で呼ばない」、「さん付けで呼ぶ」ということを推奨している――、そういう学校が増えてきていると聞いています。

 え〜?ホンマかなぁ?と、最近まで内心疑っていたのですが、実際に、うちの子が今年の3月まで通っていた保育園では、うちの子ども曰く、「お友だちのことを呼び捨てにしない」、「きちんと『〜〜さん』『〜〜くん』って呼び合う」ということが決められていたそうです。……でも、その割には、僕がお迎えに行ったら、子どもたちがワラワラと寄ってきて、「おい!しんたろうが来たぞ!」「しんたろう!なんで前髪だけ金色なんだ!」って、僕のことは呼び捨てだったんですけどねぇ。パパは例外なのかもしれません。
 でもまぁ、たしかに、そういう“名前”“呼び名”に関する扱い方というのは、少なくとも僕が子どもだった頃よりかは丁寧になされているんだなぁと思わされました。そんなルール、僕のときには無かったですからね。ニックネームで呼び合って、親しく、フレンドリーに接する――よりも、その前に、相手が「嫌だな」と思うような呼び方はしない、というほうに重点が置かれているということなのかもしれません。
 そのように、ニックネームとかあだ名で呼ぶことは、もちろん、それが良い方向に転じれば、心の距離が縮まって、より親しくなれるのかもしれませんけれども、しかしその一方で、悪い方向に転じれば、相手の心に土足で踏み込むことになって、ややもすれば、その相手の人のことを支配する(独占する)ということにも繋がりかねない……。そういう危険性を秘めている行為でもある、ということを覚えておく必要があるように思います。

「クリスチャン」という名称

 さて、本日の礼拝のために選んでまいりました聖書の箇所。今回は、使徒言行録11章19〜26節というところをお読みいただきましたけれども、この箇所にも、一種の「あだ名」のようなものに関して書かれていました。26節の最後のセンテンスですね。「このアンティオキアで、弟子たちが初めてキリスト者と呼ばれるようになったのである。」
 ここに、「キリスト者」という名称が書かれていますよね。英語では、「クリスチャン(Christian)」。この使徒言行録という書物が書かれた元々の原語であるギリシア語では、「クリスティアノス(Χριστιανός)」という言葉が使われています。「キリストの」とか「キリストの人」というような意味の、言わば“造語”ですね。ニューヨークに住んでいるから「ニューヨーカー」。関ジャニ∞(SUPER EIGHT)のファンだから「エイター」――みたいな感じです。キリストを信仰しているから「クリスチャン」、日本語では「キリスト者」というように言います。 

 ただし、この「キリスト者」という呼び名。実は、どうも最初は、自分たちで使い始めた名前ではなかったみたいなのですね。これは諸説あって、確実なことは言えないのですが、どうやら、イエス・キリストの信奉者たちのことを「キリスト者」と呼び始めたのは、その当事者たちではなくて、周りの人たち……、つまり、イエス・キリストを信じていない人たちだったようなのですね。
 「なんか良くわからんけど、最近うわさのアイツら、いるだろ?ほら、あの『キリスト、キリスト』ばっかり言ってるヤツら。ありゃ、一体何なんだろうなぁ」というような感じで囁かれているうちに、いつしか、「キリストの人」、もっと下品に言えば、「キリスト野郎」みたいな意味で、「クリスティアノス(Χριστιανός)」という呼び方が、人々の間で広まっていたのだろうと思われます。
 それは、もしかすると、親しみを込めた“愛称”だったかもしれないし、逆に、嫌悪や不信感から付けられた“蔑称”だったかもしれない。これは、もうもはや当時の人たちしか分からないことなのですけれども、しかしいずれにせよ、おそらく、この「キリスト者」「クリスティアノス(Χριστιανός)」という呼び名は、最初は、外部の人たちから呼ばれ始めた、一種の「あだ名(ニックネーム)」のようなものだった――ということを、まず抑えておいていただければと思います。

「キリスト者」という名前を自分たちのものに

 では、それに対して、当の「キリスト者」たち自身はどう受け止めたのか。答えは、この26節の中にあります。「このアンティオキアで、弟子たちが初めてキリスト者と呼ばれるようになったのである。」これが、この日本語に翻訳された文章ですけれども、実はこの翻訳、間違っているのです。正確に翻訳するとこうなります。「このアンティオキアで、弟子たちを初めてキリスト者と呼んだ。」……「呼ばれる」という受け身(受動態)ではなくて、「呼んだ」、能動態で書かれているのですね。自発的、ということです。つまり、彼らは自分たちで、自分たちのことを「キリスト者」と呼ぶようになった、ということなのですね。
 彼ら、イエス・キリストの信奉者たちは、周りから「キリストの人、キリストの人」と呼ばれていた状況を、最初は、そんなに好ましいものだとは感じていなかっただろうと思います。勝手に“あだ名”を付けられるのって、大抵の場合は、あんまり嬉しくなかったりしますからね。
 でも、イエス・キリストの信奉者たちは、そうやって周りの人たちから付けられた“あだ名”を、後に、自分たちのものとします。彼ら彼女らは、自ら、「そうです、我々はまさに『キリストの人』、『キリスト者』です」と自称するようになったのですね。そして、そうすることで、周りの人たちはもはや、蔑称として「キリストの人、キリストの人」とは言いづらくなった。だって、本人たちが胸を張って「自分たちは『キリストの人』です」って言っちゃっているわけですからね。公式がそれでOKと認めてしまったがゆえに、アンチはもう、ぐぬぬ……と言いながら、手を引っ込めるしかなくなったということです。キリスト教という宗教には、こういう“何かをひっくり返す力”、マイナスをプラスに転換する力があります。この「キリスト者」という呼び名に関するエピソードは、まさに、そのようなキリスト教が秘めている“何かをひっくり返す”力を象徴しているお話だと僕は思うのですね。

おわりに

 今でこそ、キリスト者(クリスチャン)と呼ばれる人々は、世界中に何十億人といるわけですけれども、当時は、小さな小さなコミュニティでした。圧倒的マイノリティだったのです。でも、そのようなアイデンティティを肯定的に受け止めて、「そうだ、自分は『キリストの人』だ。それで何が悪い!」と認識を改めたときに、彼らは、うつむいていた顔を上げ、未来へと一歩、進み始めることができるようになったのだろうと思います。
 名前というのは、その人の存在そのものを表す大切なものです。誰かのことを、ニックネームなど特別な名前で呼ぶときには、尊重の思いと愛情の気持ちをもって、呼んであげたいものですね。そして何より、自分が普段使っている名前、また周りから呼ばれている名前、いろいろありますけれども、それらの名前が表している「自分」という人間を、誰よりも愛して、かけがえのない存在だと肯定してあげられる……、そういう心を持つことができるよう、これからの日々の中で、ご一緒に養い、培っていくことができればと願っています。

 ……それでは、礼拝を続けてまいりましょう。

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