天邪鬼(あまのじゃく)なイエス
日本聖公会・愛知聖ルカ教会
礼拝:毎週日曜日 午前10時30分〜正午
2022年1月16日(日)聖書日課
旧約:イザヤ書62章1~5節
詩編:36編5~10節(協同訳:6~11節)
使徒書:コリントの信徒への手紙一12章1~11節
福音書:ヨハネによる福音書2章1~11節
↓日本聖公会京都教区 ほっこり宣教プロジェクト資料編↓
はじめに
1月16日(日)、新年に入って2回目の主日を迎えた。先週の日曜日は「主イエス洗礼の日」と言って、大人になったイエスが洗礼者ヨハネから洗礼を受け、そうしていよいよ公の場で活動を始められるようになった、そのことを記念する主日であった。
教会の暦としては、既に1月6日の「顕現日(エピファニー)」より、新しい期節、すなわち「顕現節」という期節に入っている。しかし、先週の聖餐式でも(別の牧師が)お話されていたように、この間の日曜日「主イエス洗礼の日」というのは、言ってみれば、「クリスマス(降誕節)」の締めくくりの日とも言える日である。
先週読まれた福音書のテクストの中で、イエスが洗礼を受けた際、天から次のような言葉が聞こえてきたと記されている。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」(ルカ3:22)。天から聞こえてきたこの神の言葉によって、クリスマスの日に生まれたイエスという人物が、「わたしの愛する子、わたしの心に適う者」、つまり「神の子」であるということが世に示されたわけである。
同時に、イエスの洗礼の物語というのは、『聖書』という一貫したコンテクストの中で、洗礼者ヨハネとイエス、この二人に象徴されているように、旧約の時代から新約の時代へと移り変わっていく、そのような“場面転換”の役割を担っている物語でもある。ここからイエスによる新しい時代が始まっていく。それが示されるのが、先週の聖書日課で読んだイエスの洗礼の物語なのである。
そういうわけで、我々教会は、教会暦の始まりであるアドヴェント、そしてクリスマスという期節を通じて繰り返し語られてきた「神の子イエス・キリストの来臨」という出来事を、先週の「主イエス洗礼の日」において改めて再確認し、そして、そこからイエス・キリストという一人の人物の公生涯を概観しつつ、新たな時代の幕開けと、その歴史の中に現された神の御旨に思いを向ける、そのような顕現節以降の日々を過ごしていくことになるのである。典礼色は、クリスマスの色である「白色」から「緑色」に変わった。ここから、いよいよ本格的に、イエスの公生涯、すなわち、人々の中に姿を現されてから十字架に至るまでの、そのイエスが歩んだ道のりを我々は辿っていくことになるわけである。
夫婦関係と「栄光」
さて、今日の聖書日課の中で、まず注目すべきなのは、福音書として選ばれているヨハネ福音書の2章、そして旧約のイザヤ書62章にそれぞれ記されている「栄光」という言葉であろう。それと、この「栄光」という言葉が、結婚・夫婦関係という文脈の中で書かれているのも重要なポイントだと思われる。
福音書の箇所として選ばれている「カナの婚礼」のお話は、その名の通り「婚礼の宴」を舞台としたエピソードとなっているわけであるが、この中でイエスは奇跡を行い、「その栄光を現された」と書かれている。この「カナの婚礼」の詳細については、後ほどじっくりお話しようと思うので、ここでは少し脇へ置いておこうと思うのだが、この福音書のテクストに対応する形で選ばれている旧約のイザヤ書62章の箇所は、5節を見てみると、「若者がおとめをめとるように/あなたを再建される方があなたをめとり/花婿が花嫁を喜びとするように/あなたの神はあなたを喜びとされる」と書かれているように、一度滅亡したエルサレムの都が主なる神の守りのもとで再建される様子が、「夫と妻」つまり「夫婦」の関係にたとえられている。これは、旧約聖書の中にしばしば見られる表現である。そして、冒頭に戻って1節から2節の箇所を見てみると、彼女[エルサレム]の正しさが光と輝き出で/彼女の救いが松明(たいまつ)のように燃え上がる[……]諸国の民はあなた[エルサレム]の正しさを見/王はすべて、あなたの栄光を仰ぐ……とあるように、夫を得た妻としてのエルサレムの中に「光(栄光)」がもたらされるのだと述べられている。
「『光(栄光)』がもたらされる」というのは、我々がこれまで過ごしてきたクリスマス、そして顕現日(エピファニー)の中心テーマであった。「まことの光」なる神の子イエスがこの世に顕現(到来)した。そのことを覚えるのが、先週までのテーマだったはずである。けれども今日、この顕現後第2主日にもそのテーマが引き継がれているのは、どういうことだろうか。以前も少しお話したけれども、教会の暦は、面白いことに、前と後でハッキリと区切られるものではなく、言わばグラデーション的に移り変わっていくものなのである。考えてみれば、春夏秋冬という4つの季節に関しても、明確に変化していくわけではなく、徐々に新しい季節の訪れを感じさせてくれる。それと同じように教会暦も、前の期節から次の期節へと移り変わる中で、共通したテーマというものが意識的に組み込まれているのである。この降誕節から顕現節の変わり目にあたる1月の前半には、この世に「光がもたらされる」「栄光が現れる」というのが共通したテーマとなって、グラデーション的に暦が移り変わっていくのである。教会暦的には既に「緑色」の期節を迎えている。しかしながら、先週までのクリスマス・エピファニーの雰囲気をほのかに残しつつ過ごされるのが、この顕現節の第2主日の特徴であると、そのように言うことができるかもしれない。
カナの婚礼
さて、そのようなことを覚えつつ、今回は、ヨハネ福音書の「カナの婚礼」のお話を中心に説教を語っていきたいと思う。
「カナの婚礼」というテーマは、西洋美術の世界でも多くの作品が残されている題材とされている。その中でも最も有名なのは、ルネサンス期のヴェネツィアを代表する画家として知られるパオロ・ヴェロネーゼによる作品であろう。この作品の中には、見てのとおり大勢の人たちが描かれているが、なんと130人以上の人物が描かれているらしく、まるで『ウォーリーを探せ』ならぬ『イエスを探せ』のようである。
「カナの婚礼」は、どのような内容のお話だったか。簡潔に述べるとすれば、次のように説明できる。「イエスと弟子たちが招かれた婚礼の宴で、葡萄酒がなくなってしまう。聖母マリアがそのことをイエスに伝えると『私には関係ない』と一度はつれなくするが、6つの水がめに水を満たすように言う。かめに満たされた水は葡萄酒に変わっていた。」そして、「イエスが公衆の前で行った最初の奇跡。絵ではマリアとイエスの微妙な空気が見どころ」と書かれており、「ねえ、ワインが足りなくなっちゃったって」「知りませんねー」というように、マリアとイエスの可愛らしいイラストが添えられている(『『鑑賞のためのキリスト教美術事典』より』)
「カナの婚礼」のお話に登場するイエスは、一言で言えば「あまのじゃく」だと思う。宴の席で振る舞われるぶどう酒がなくなってしまったことをお母さんのマリアから告げられたイエス。この時マリアは、「我が子ならきっと何とかしてくれるはず」という期待と信頼を込めて、イエスに「あのね、ぶどう酒がなくなっちゃったらしいのよ」と話しかけているように思われる。けれども、肝心のイエスはというと、マリアに対して次のように答えているのである。「女よ、私とあなたに何の関係が?」これがほぼ直訳。
これは、非常に冷たい態度であるように感じる。「ぶどう酒がなくなったから、何?」とか、「私、もてなす側じゃなくてもてなされる側なんだけど」という言い方なら、まだ理解できるような気がする。実際そのとおりだからである。マリアもイエスも、この婚宴の席では、ただ招かれて来ただけの一般客。だから、別にぶどう酒がなくなったからといって、彼らが慌てる必要はないのである。まぁ、どうしても飲みたくて飲みたくて仕方ないとか、他のお客さんを差し置いて、イエス一行がガブガブガブガブと飲みまくって全部飲み干してしまったのだとしたら話は違ってくるけれども……。そうでないのだとしたら、「別に私には関係ないよね」と答えたとしても、それはいたって普通のことなのである。
けれども、ここでイエスはそういう言い方はしていない。彼は、マリアのことを指して、「“あなた”と私は何の関係が?」と言って、自分の母親を突き放したのである。「ぶどう酒がなくなったことは、私とどういう関係が?」ではなく、「“あなた”と私は何の関係が?」と言った。つまり、言い換えれば「私に関わるな」と、自分の母親に言い放ったわけなのである。
……できれば、イエスの口からこんな言葉が発せられたなんてことは信じたくないものである。今の時代だったら、まさに“大炎上”してしまう案件ではないだろうか。「イエスが自分のお母さんにこんなこと言うなんて信じられない」、「失望した」、「ファン辞めます」などというような言葉がネット上にあふれる事態に発展していたかもしれない。2000年前にインターネットが無くて良かったなぁと思わされる。
しかしながら、(イエスの名誉のために念のためもう一度確認しておくと)イエスはこんなことを言いながらも、結局は、水をぶどう酒に変えるという奇跡を行なって、マリアの期待に答えるのである。皆さん、どう思われるだろうか。……思春期かよ!中学生男子かよ!母親に逆らいたい年頃かよ!とでも言いたくなるような、そういう話の展開である。まさに「あまのじゃく」ではなかろうか。母親に「ぶどう酒がなくなった」と言われたら、「私に関わるな」と突き離し、しかし、「はいはい、じゃあね」と言って母親がその場を離れたら、ちゃんとぶどう酒を用意する。……う〜ん、「あまのじゃく」である。
「あまのじゃく」の由来
ところで、ちょっと話が脱線するが、皆さんはこの「あまのじゃく」という言葉の由来をご存知だろうか。「あまのじゃく」とは、「ひねくれた性格」を指す言葉である。多数派の意見に(良くも悪くも)あえて反対したり、人からの称賛を喜ばなかったりなど、「素直」とは全く対照的な態度をとる人のことを指す(まるで僕のようですね)。
この「あまのじゃく」という言葉の由来には諸説あるのだが、その中でも最も広く知られているものの一つとして、『日本書紀』や『古事記』といった「記紀神話」に登場する「天探女/天佐具売(アメノサグメ)」という名前の一人の女性に由来するという説が挙げられる。
日本の神話によると、天上世界に住む「天照大御神(アマテラスオオミカミ)」と「高御産巣日神(タカミムスビノカミ)」はある時、地上の世界が混乱に陥っているのを見て、秩序回復のために「天若日子(アメノワカヒコ)」という神に弓矢を持たせて地上世界へと派遣した。しかし、地上に降り立った天若日子は、地上を支配する国津神の一人「大国主神(オオクニヌシノカミ)」の娘「下照比売(シタテルヒメ)」と結婚し、また、あわよくば、その国を自分のものにしてやろうと企むようになった。
8年経っても地上から天若日子が帰ってこないことを心配した天照大御神と高御産巣日神は、一羽のキジを派遣して、「早急に連絡をよこすように」と伝言を伝えることにした。ここに登場するのが、先ほどご紹介した「天探女(アメノサグメ)」。彼女は、おそらく天若日子のそばで仕える“巫女”、あるいは“女神”と見られているのであるが、天探女は、天から降ってきたキジが、天若日子に伝言を伝えようとするのを見て、すかさず、「天若日子よ、このキジは鳴き声が良くありませんから、さっさと殺してしまいなさい」と助言したのである。そして、そのキジは、天若日子の放った弓矢によって撃ち抜かれ、殺されてしまった……という、そのようなお話になっている。
ちなみに、この話には続きがあって、天若日子が放った弓矢は、キジの体を貫いたあと、そのまま天上世界へと飛んでいき、天照大御神と高御産巣日神のもとに届く。彼らは、その弓矢を見ながら、「この矢が、地上で悪さをする神を射抜いたものならば良いが、そうでないなら(つまり天若日子が悪意を持って射った矢であるならば)、これは天若日子のもとにそのまま帰れ」と言って地上に投げ返す。そして、その矢は、寝床で横になっている天若日子の胸に刺さり、彼は死んでしまうという、そのような結末を迎えることになるのである。
このように、地上世界の混乱を鎮めるために天津神たちが手を差し伸べたにもかかわらず、天探女という存在が余計なことをして妨害するという、そういうストーリーになっており、このことから、「天」の「邪」魔をする「鬼」、そして、アメノサグメ→アマノジャグメ(?)→アマノジャクという感じで「天邪鬼(あまのじゃく)」というキャラクターが生み出され、また、“ひねくれた性格”という意味の「あまのじゃく」という言葉が広まっていくことになったと考えられているのである。
……諸説あり!!ということは、重ねて申し上げておきたいと思う。
栄光は神に帰す
さて、聖書のお話に戻りたいと思うが……。この「カナの婚礼」に登場するイエスは(先述のように)言っていることとやっていることが違うという意味で、まぎれもなく「あまのじゃく」である。素直にお母さんの頼みを聞いて奇跡を行えば良いのに、そうはせず、一旦悪態をついてから母親を遠ざけ、そしてそのあと、しっかりとぶどう酒を用意する。まさに「あまのじゃく」そのものである。
けれども、どうだろう。先ほどの日本神話の話の中で紹介した「天の邪魔をする者」という意味での「天邪鬼」に、この時のイエスは当てはまるだろうか。いや、天の邪魔をするどころか、むしろ、困っている人たちのために手を差し伸べよという神の御旨をしっかりと体現し、そして栄光を現しているではないか。
しかも非常に興味深いことに、イエスはこの時、水をぶどう酒に変えるという奇跡を行なった後どうしたかと言うと、そのまま、“すました顔”をしながら引き続き宴会を楽しむのである。水がめを運んだ召し使いたちや、イエスのそばにいた弟子たちだけは、さすがに、彼が奇跡を起こしたことを知っていただろうけれども、ぶどう酒をお客さんについでまわる世話役の人たちや、花婿や花嫁、そして他のお客さんたちは皆、その事実に気付いていないのである。つまり、イエスは、「誰からも感謝されていない」ということになるのである。
『栄光は主に帰す』。そのような言葉がキリスト教にはあるが、自分の業によって自分が称えられるのではなく、みんなが食べて飲んで満足し、幸せな気分になり、また、花嫁さんや花婿さんがみんなから祝福され、そして最後に、「素晴らしい婚宴だった。神よ、感謝します!」とみんなが心に思いながら家路につくことができれば、それで充分。この時のイエスの「あまのじゃく」な態度と、そのあとの“隠れたところ”で為された奇跡には、そのようなイエスの思いが込められていたのかもしれない。
お母さんのマリアは、イエスのそういう“ひねくれた性格”について、もうかれこれ30年間ずっと見てきて、嫌というほど知っていたことだろうと思われる。だからこそ、無理に頼むのではなくて、ひそかに周りにいたスタッフの人に、「悪いけど、あの人の言うこと聞いてあげてね」と伝えておいたのだろう。マリアは、我が子であるイエスのことを信頼していた。イエスも、マリアに対して悪態はつくけれども(この箇所だけじゃなく、他の箇所でもイエスは自分の実の家族に対しては冷たい態度をとる)、それは実は、彼女のことを嫌っているのではなく、そもそも彼は“そういう性格”なのである。イエスは、しっかりと母親であるマリアのことを愛している。大切な存在だと思っている。
そう考えると、この「カナの婚礼」のお話というのは、今のこの時期、つまりクリスマスの後のシーズンに読まれる箇所として、この上なく相応しい、そういう箇所なのではないかと思わされるのである。
おわりに
最後に、翻って我々のことに目を向けてみたいと思うが、我々はまさか、この時のイエスがしたように、水をぶどう酒に変えるような奇跡を行なって、人々を助けるなどということができるわけではない。また、パンを5000人に分け与えたり、病気を癒やしたり、目を見えるようにできたりするわけでもない。まぁ、それに近いような、人々から驚かれるような何か凄いことができるという人も、中にはいるかもしれない。それがおそらく、今日の使徒書(第一コリント書)の中に記されていた「奇跡を行う力」(10節)を持つ人なのだろうと思う。しかし、そんな人はめったにいない。
その代わり、聖書には次のように書かれている。使徒書の4節以下。「賜物にはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ霊です。務めにはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ主です。働きにはいろいろありますが、すべての場合にすべてのことをなさるのは同じ神です。」
我々には、一人ひとりに神から与えられた賜物があり、また務めや働きがある。それらには、優も劣も、大も小も無い。7節に記されているように、「一人一人に“霊”の働きが現れるのは、全体の益となるため」なのである。
振り返ってみると、今回の「カナの婚礼」の場面で起こった奇跡の業は、イエスが命じた言葉がキッカケにはなっていたけれども、それだけでは、この奇跡は達成されなかった。水がめを運んできた者、水をその中に注いだ者、水がめを受け取ってぶどう酒を客についでまわった世話役、イエスに助言したマリア。そのようにいろんな人たちの存在と働きがあって、はじめてこの婚礼の宴における奇跡は実現するに至ったと、そのように言えるのではないだろうか。そしてそれはひとえに、イエスが示したように「神の栄光を現す」ため、栄光を神に帰すためであった。
今年1年、我々はいったいどんな日々を過ごすことになるだろうか。それは誰にもわからない。けれども、どんな時も、我々のうちには、一人ひとりに与えられている神の賜物があり、使命があるということを覚えておきたいものである。そして、イエスが身をもって教えてくれたように、「栄光を神に帰す」ということを、人生の務めとして、今年一年もご一緒に歩んでいきたいと思う。
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