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ご希望はございますか?

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聖書箇所

2024年9月11日(水)大学礼拝の聖書箇所
 ローマの信徒への手紙 5章1〜5節

はじめに

 どうも皆さん、「いつくしみ!」
 新学期が始まって数日が経ちましたけれども、皆さん、いかがお過ごしでしょうか。まだ……ね、「夏休みモード」から「日常モード」に切り替えられなくて困っている――、という人も結構いるんじゃないかと思います。
 僕も、この期間中、(ちょっと世間よりも早く)7月末から8月あたまにかけて、一週間のお休みをいただいたのですけれども、まぁその後の休み明け……、もう全然頭が働かなかったですね。いろいろ、たとえば礼拝のお話を考えようと思って、ずーっとパソコンと“にらめっこ”してみるものの、全然、何にもアイデアが思い浮かばない。そんな日々が、結局一週間続きました。一週間休みを取ったら、その後、まるっと一週間は“本調子”じゃなかった感じがしましたね。
 なので、新学期を迎えた皆さんも、もしかするとね、憂鬱な気分が続いているっていう人もいるかもしれませんけれども、「いやいや、そんなもん、一ヶ月以上も日常から離れてたんやから、当たり前や」……と、「むしろ、このさき一ヶ月くらいは、“リハビリの期間”やと思って、ゆっくり調子取り戻していったらえぇわ」……と、そんなふうに開き直ってしまうのもアリかもしれないですね。

恐れはダークサイドへ

 さて、そんな長い長い夏休みが明けて、後期、第一回目の大学礼拝を迎えているわけですけれども、今回の、この礼拝のために選んでまいりました聖書の箇所は、新約聖書のローマの信徒への手紙5章1〜5節というところでした。「わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを」っていう、なんか良い感じの言葉が書かれている箇所でしたね。
 この、「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む」っていう言葉は、(学生の皆さんの中には、ひょっとすると「観たことない」っていう人も多いかもしれませんけれども)『STAR WARS』っていう映画……ありますよね。あーでも、確か一時期、『ツムツム』でもコラボしてましたね。なので、一応、「ダースベイダー」とか「ヨーダ」くらいなら知っているっていう人はある程度いるかなとは思いますが、その『STAR WARS』の中に、これとよく似た言葉が出てくるのです。
 後に「ダースベイダー」へと変貌を遂げることになる、幼き日のアナキン・スカイウォーカーに対して、ジェダイ・マスターのヨーダがこんな言葉を告げるのですね。「恐れはダークサイドに通じておる。恐れは怒りに、怒りは憎しみに、憎しみは苦しみに通じておるのじゃ。」(STAR WARS エピソード1 ファントム・メナスより)

 「恐れは怒りに、怒りは憎しみに、憎しみは苦しみに」……、そしてその苦しみから解放されようと、自分の力だけでその苦しみを克服しようとして)、人はダークサイドへと堕ちてしまうのだ――というような教えを、ヨーダは、幼き日のアナキンに語ったわけです。
 これ、先ほどの聖書の言葉と似ていますよね。聖書のほうは、「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を」。STAR WARSのほうは、「恐れは怒りに、怒りは憎しみに、憎しみは苦しみに」。一説によると、このセリフは、まさに今お話しているとおり、今回の聖書の言葉をモチーフにして作られたセリフだと言われています。
 恐れはダークサイドに通じている……。だから、充分に用心しなければならない……と、ヨーダはアナキンに教えたわけですが、しかし残念ながら、アナキンはこの後、まさしくヨーダが言った“この言葉のとおりの人生”を歩んでいくことになって、そして最終的に、“ダークサイド”へと堕ちていってしまうことになるのですね。

ヨーダからパウロへ

 さて、このヨーダの名言と、今回の聖書の言葉ですけれども、実は、これら二つの言葉というのは、単に“似ている”だけではないのですね。この二つは、なんと“繋がっている”のです。
「恐れは怒りに、怒りは憎しみに、憎しみは苦しみに」……。一方で、聖書のほうは、「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を」……。この最初の言葉、「苦難」というように日本語では訳されていますけれども、英語の聖書では、シンプルに“suffering”(苦しみ)となっています (NRSV、ESVなど多数)。ヨーダが使っていた言葉も“suffering”(苦しみ)です。なので、この二つの言葉は、“繋がる”わけなのですね。

 「恐れは怒りに、怒りは憎しみに、憎しみは苦しみに」通じている。しかし、「苦しみ(苦難)は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を」生み出していく――。その途上で、もしも“誤った道”を進んでしまうと、人の心は(STAR WARSで言うところの)「ダークサイド」、つまり「暗闇」によって支配されることになってしまう。しかし、その「苦しみ(苦難)」を乗り越えたならば、その先に「希望」の光が見えてくるのだ、というように聖書は語っているわけです。
 「苦しみの先に希望がある」、「困難の先に希望がある」、あるいは、「絶望の先にすら……、もう、どうしようもないと思えるような状況の先にすら、必ず希望はある」――。そのように、キリスト教では教えられています。さらには、今やキリスト教とは関係ないところでも、そういう感じの“励ましの言葉”というのは聞かれるようになっていますよね。映画とかドラマでも、もう、必ずと言って良いほど耳にする言葉なんじゃないかと思いますね。

「希望」の二つの意味

 「絶望の先に希望は必ずある」――。大切な教えだなと思います。でも……ですね、まぁ何と言いますか、その……、果たして本当にそうなのかな?って思ってしまうこと、ありますよね。「大丈夫!絶対になんとかなる!だから、明るい未来を信じて、“希望”を信じて歩んでいこう!」って言う人、結構いますけれども(もちろん、その人たちは本気で誰かのことを励まそうとしているのでしょうけどね)、でも……、その言葉をただただ真っ直ぐに受け止めて、「そっか!絶対に希望があるんだな!よし、励まされた!」っていう感じになれるほど、多分僕らは“純粋”じゃないですよね。「そんなふうに言ってくれる気持ちはありがたいけど、正直言って、この先に“希望”があるとは、到底思えないんだよね」って。悩みや不安が多い、我々現代人の“心の闇”というのは、そんな簡単に“晴れる”ものではないだろうと僕は思うのですが、いかがでしょうか。
 じゃあ、どうしたら良いんだろう――。どうやって僕らは、「希望」というものを信じることができるのだろう――って、そんなことを考えながら、先週一週間、このお話の原稿を準備していました。僕は結構、仕事が行き詰まったときには、ファミレスに行って……ね、コーヒーとか飲みながら、パソコン開いて仕事することが多いのですけれども、やはり先週も、家の近くのファミレスでこの日のお話の原稿を書いていました。
 そしたらですね、(最近は、注文するときに店員さんを呼ぶんじゃなくて、「タッチパネル」で注文するお店が増えてきていますけれども)そのタッチパネルから、こんな声が聞こえてきたのですね。「ご希望のメニューを選択してください。」

タッチパネル「ご希望のメニューを選択してください」(イラストACより)

 ……ご希望のメニューを選択してください。……“ご希望”のメニュー。あぁ、「希望」って、そういえばこういう時にも使うのだなぁ。いや、でもこれは、「明るい未来」のことを指している「希望」ではない。「山盛りポテトフライ」が「明るい未来」だとは、少なくとも僕は思わない。じゃあ、この「ご希望」って、どういう意味だ?

 皆さん、どう思います? ねっ、まぁ皆さんも、よく聞く言葉だと思いますけれども、こういう場合の「希望」って、遠い将来のことを指しているわけではなくて、むしろ、「『いま』、自分が何を求めているか」ということを指す言葉として使われているのですよね。辞書で調べてみたところ、ちょっと堅苦しい表現ではありましたけれども、「将来に対する期待」ではなくて、2番のほう、「あることの実現をのぞみ願うこと」……、どちらかと言えば、こっちですね。「『いま』、何を願っているか」、「自分は何を求めているのか」、「あぁなりたい」、「こうなりたい」、「幸せが欲しい」、「愛が欲しい」、「生きる元気が欲しい」……などなど。そういう、自分の中にあるはずの『いま』の願望や欲求のことも、日本語では「希望」と言うのだと、僕は先週、ファミレスのタッチパネルから気付かされました。

おわりに

 遠い将来のことは、どうしても信じるのが難しい。「この先に必ず『希望』がある」なんて言われても、そんな保証はどこにも無いし、そんな不確かなことを信じられるほど、僕らは“お人好し”ではない。
でも、「希望」って実は、遠い将来ではなくて、もう一つ、しかも僕らのすぐ近く、僕らの心の中にもあるものなのですよね。「いま」自分が求めていること、「いま」自分が望んでいること。実は、僕らが生まれたときから、赤ちゃんの頃から、言語化は出来なくてもずっと泉のように湧き出てきているもの、それが、僕らの心のなかにある「希望」です。これは、少し心の中を覗けば、必ず見つかるものだと思います。
 「『いま』自分が本当は何を求めているのか」ということを、自分自身に問うてみる――、心の中を探ってみる――、そこから、眼の前に道が拓かれていくということがあるかもしれません。果たして、皆さんお一人お一人の「ご希望」は、どんなことでしょうか?
「わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。」(ロマ5:3〜5より)

 ……それでは、礼拝を続けてまいりましょう。

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