上級国民を厚遇する教会の闇
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詩編・聖書日課・特祷
2024年9月15日(日)の詩編・聖書日課
旧 約 イザヤ書 50章4〜9節
詩 編 116編1〜9節
使徒書 ヤコブの手紙 2章1〜5節、8〜10節、14〜18節
福音書 マルコによる福音書 8章27〜38節
特祷(聖霊降臨後第17主日(特定19))
神よ、あなたに寄らなければわたしたちはみ心にかなうことができません。どうか何事をするにも、聖霊によってわたしたちの心を治め、導いてください。主イエス・キリストによってお願いいたします。アーメン
下記のpdfファイルをダウンロードしていただくと、詩編・特祷・聖書日課の全文をお読みいただけます。なお、このファイルは「日本聖公会京都教区 ほっこり宣教プロジェクト資料編」さんが提供しているものをモデルに自作しています。
はじめに
どうも皆さん、「いつくしみ!」
さて、今朝の聖書日課で選ばれている聖書の箇所ですけれども、この中で僕が今日、特に注目したいのは“使徒書”の箇所です。ヤコブの手紙 2章1節以下という箇所が選ばれていました。「あなたがたの集まりに、金の指輪をはめた立派な身なりの人が入って来、また、汚らしい服装の貧しい人も入って来るとします」(2節)という“たとえ話”が書かれていました。今回はほとんど、この“たとえ話”に関してだけお話をさせていただこうと思うので、いつものようにベラベラと、25分も30分も講釈を垂れるつもりはありません(笑)。コンパクトに、「これが大切だな」と感じたことをいくつかお話させていただいて、スパッと終わりたいと思います。
金持ちを丁重にもてなす教会
この「金持ちと貧しい人のたとえ話」ですが、非常に刺激的な内容になっていましたね。福音書以外で、こうやって“たとえ話”が記されているのは、かなり珍しいのではないかと思いますけれども、これもまた、「イエスの語ったたとえ話」と同様に、古代の教会において大切にされてきた、重要な“たとえ話”の一つだと言えると思います。
2節の冒頭に、「あなたがたの集まり」とありますけれども、これは「ヤコブの手紙」を受け取った、教会の信者たちの集まりのことを指しています。そんな彼らの教会に、ある時、二人の人が入ってきた、と。一人は、金の指輪をはめた立派な身なりの人。Rich manですね。もう一人は、汚らしい服装の貧しい人、Poor man。そのような、いかにも対象的な二人の人物が、教会にやってきたわけです。
すると、人々はRich manのことを見るや否や、急に腰を低くして、「あぁ!ようこそお越しくださいました。さぁ、どうぞどうぞ、こちらのお席にお座りください」と言って、そのRich manのことを丁重にもてなし始めたのですね。まぁもちろん、実際にはそこまで大袈裟に書いているわけではありません。聖書の本文には、ただ一言、「あなたは、こちらの席にお掛けください」という短いセリフが書かれてあるだけです。
でも、先ほども言いましたように、この手紙の著者は明らかに、この二人の人物を正反対に描いているわけなのですよね。だからそれならば、我々読者としても、その“極端さ”を尊重して、この二人の人物はいかにも分かりやすく、“真逆”の扱いを受けることになったのだ――というように受け取るほうが良いだろうと、僕は思うのですね。なので、この立派な身なりの人を見て、教会の人たちは、「あぁ!お金持ちぃ!へこへこぉ〜!お手々もみもみぃ〜!」というように手厚くもてなしたのだろうと、今回はそう読んでおくことにしたいと思います。
わたしの“足台”の下に座れ
さて、しかしながら、もう一人のPoor man(汚い身なりの人)に関しては、全く真逆の対応がなされています。「……、あー、あなたはね、まぁテキトーに、そのへんに立っといてちょうだい。……ん?なに?立ったままじゃなくて、みんなと同じように座りたい?……はぁ〜。はいはい、じゃあ、そんなに座りたいんだったらね、ここ。分かる?“ここ”に座りなさい。」
今日の聖書の箇所を見てみますと、「わたしの足もとに座るかしていなさい」(3節)と書かれていますけれども、これは実に良くない翻訳ですね。本当に良くない翻訳なのです。と言いますのも、この日本語訳には、ある重要な言葉が欠落しているのですね。「わたしの足もと」と訳されているギリシア語本文は、このように(ὑπὸ τὸ ὑποπόδιόν μου)なっています。「ヒュポ ト ヒュポポディオン ムウ(私のヒュポポディオンのヒュポ)」という感じで、まぁ発音してみますと、なんかね、「ヒュポヒュポ」言ってて可愛らしい感じがしますけれども、実際は全然可愛くない。むしろ、“えげつない”ことがここには書かれているのですね。
この中の、“ὑποπόδιόν”という単語。これは「足台」という意味の言葉です。椅子に腰掛けたときに、足を置く台のことを“ὑποπόδιόν”と言うのですが、この我々が今持っている日本語訳では、これが抜け落ちてしまっている。この「足台」という言葉が省略されてしまっているのですね。
「足台」というのは、「支配」を象徴するアイテムとして、聖書の中で度々言及されています。「わたしはあなたの敵をあなたの足台と[する]」(詩編110:1ほか)というフレーズが聖書の中で何度か出てくるのですけれども、それはつまり、「あなたの敵を、あなたに支配させる」という意味なのですね。
さすがに今回の箇所では、教会に来た貧しい人に対して、「さぁ、ここでひざまずいて(四つん這いになって)、わたしの『足台』になれ」というような、そういう露骨なことが書かれているわけではないのですけれども、しかし、このように、「わたしの『足台』の、下(ὑπὸ)に座れ」(“ὑποπόδιόν”がすでに「足の“下(ὑπο)”」という意味であることに注目)と書かれていることからも分かるように、ここでは明らかに、「あのお金持ちは、私たちよりも“上”の存在。そして、汚い身なりのお前は、私たちよりも“下”の存在なのだ」という、いわば、社会にはびこる経済格差や社会的地位というものを、あろうことか、キリスト教会自らが“肯定する”……、そのような様子が描かれているわけなのですね。
権力者に逆らっても何の得にもならない
そのような過ちを正すために……、教会の人々の目を開かせるために書かれたのが、この「ヤコブの手紙」だった――。ヤコブ書という文書は、新約聖書の中でも、随分あとの時代に書かれた文書だと考えられています。初代のキリスト者たちが作り上げた各地の教会が、数十年の間に、ある程度、軌道に乗ってきて、次第に現実的な(世間と同じような)問題が発生してきた――、その頃にどうやら、この手紙は書かれたようなのですね。「金持ちを優遇したほうが得だ」というように人々が考えるようになったのも、教会のメンバーが増えてきたあと、次のステップとして、より組織としての安定を得ようと考えたが故のことだったのだろうと想像するわけですね。
ただ、ここで気を付けなければならないのは、彼らの媚びへつらいは、決して“お金目的”だったわけじゃないということなのです。「もっと献金してもらって、教会の財政を潤そう」みたいな、そういう考えで金持ちに媚を売っていたわけではないのですね。この聖書日課で「これは問題だな」と僕が感じているのは、今日の箇所、「5節」のあと「8節」に飛んでるじゃないですか。6節と7節が省かれているのですよね。でも実は、その省かれている部分にこそ、このとき、教会の人々が金持ちのことを優遇しようとした、その理由について記されているのですね。
では、そこには何が書かれているのか。こちらです。「富んでいる者たちこそ、あなたがたをひどい目に遭わせ、裁判所へ引っ張って行くではありませんか。」(6節)
富んでいる者たち(つまり、金持ちたち、権力者たち)というのは、自分たちが気に入らないと思った一般庶民のことを、適当な理由をつけてしょっ引いて、社会から抹消しようとする……。そのような理不尽極まりない富裕層たちの横暴を、古代の人々は(教会の人たちも含めて)みんなよく知っていたし、それ故に、きっと多くの人たちが、そういう傲慢なRich peopleのことを憎んでいた。でも、だからといって彼らに逆らったとしても、それは何の得にもならない。
……図々しくも、ある日、金の指輪を着けた如何にもな金持ちが教会にやってきた。どういうつもりで教会に来やがったんだ、コイツ。どうせ、“珍しいもの見たさ”で来ただけだろう。でも、ぞんざいに扱って、機嫌を損ねでもしたら、えらいことになるかもしれない。……くそっ!(クルッ)「いやぁ〜、ようこそお越しくださいました!お荷物お持ちいたしましょう。さぁさぁ、どうぞ、こちらの一番良いお席をお使いくださいませ!」
おわりに
すべては自分たちを守るため、教会を守るため。寝た子は起こさないに限る。そのような古代の人々の事情は、当然、分からなくもありません。懸命な判断だとは思いますし、そうでなくても(突然現れた新興宗教ですからね)、日常的に嫌がらせや風評被害などに悩まされていたことだろうと想像します。
でも、そのような中で次々に積もり積もっていく彼ら古代教会の信者たちの怒りや憎しみというのは、結局のところ、当時の社会において当たり前のように存在した身分制度とか経済格差の影響を受けて、貧しい人、社会的地位の低い人へと向けられていたわけです。今の我々とは違って、当時の人々は、そのことを「差別」とは捉えていなかったかもしれない。教会としてどうなんだ、という疑問すら抱かなかったかもしれません。「子どもへの体罰」とか、「女は男より3歩下がって歩くべし」とか、そういうのが当たり前だった時代がかつてあったように、「お前はわたしの足台の下に座れ」という言葉が、教会で当然のように聞こえてきていた時代が本当にあったのでしょうね。
この「ヤコブの手紙」は、そんな時代の教会に対して、「それは“差別”だ!」と声高に訴えた、貴重な文書であると言えます。しかもその主張は紛れもなく、教会が失いかけていた、あの“イエス・キリストの正義”そのものだった――。どっかと椅子に腰掛けて、足を足台に乗っけてるだけの信仰じゃなくて、足台から下りて、まさに“地に足をつけた”リアルな信仰を、イエスも、またこの手紙の著者も、人々に求めていたわけです。
「現実を生きる」というのは、俗世の常識や慣習に従って生きることではなく、自分の目の前に存在する世界を、常に吟味しつつ、本当の正しさとは何か、真の理想はどのようなものかと絶えず問いながら生きていくことだ――。そのように、今日の聖書の言葉は、時を超えて、現代の僕らに語ってくれているように感じます。
……それでは、礼拝を続けてまいりましょう。