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「手触り」の記憶

太陽が昇る直前の、しんと静まり返った漆黒の空。
そのときは新月で、ハワイ島のマウナケア山頂で、私は、いつ昇るともわからない太陽を凍えながら待っていました。

麓を発った数時間前はたしか常夏の熱帯夜だったのに、4,200mの山頂はダウンを着込んでも震えがくるほどの極寒。

目の前の漆黒の遙か先に、わずかに感じる目に見えない太陽の気配を少しずつ手繰り寄せながら、
届くようで届かない温度を、全身の細胞が求めていたあの数分間の記憶は、絶望と希望がちょうど半分ずつ混ざり合ったような、今思うととても不思議な手触りのものでした。

普段は記憶の底に沈殿している、確かな手触りのある記憶は、時に、目で見た景色よりも強烈に刻まれていて、いつでも呼び起こすことができて、いつまでも鮮やかです。

大人になればなるほどに、一日も、一週間も、一ヶ月も、一年もあっという間に過ぎ去ってゆくような気がするけれど、例えばスマートフォンを持たずに普段乗らないような電車に乗ってたどり着いた海岸で、全身を潮風にさらしながら、寄せては返す波をただ眺めるだけでも、
プレシャスな一日になったりする。

それもまた「手触り」の記憶とするならば、
毎日の幸福や充実のほとんどは、自分次第なのかもしれません。

元号が変わり、2010年代も最後となる2019年に、
手触りのある色あざやかな記憶をいくつ刻む事ができるか?
私自身とても楽しみですし、そんな感受性を高める日々でありたいと思います。

会報誌Rinto 2019年1月号 巻頭コラムより

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