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一発書きチャレンジ_01 スーツケースが重い理由

2023年2月から始まった3拠点生活は、2023年8月現在も継続中である。

2週間を一つの区切りとしており、東京ではホテルに暮らし、ベースは熊本市のマンション、そしてその間に上天草市と移動する。

2週間毎に飛行機に乗り、ホテルに着いたらまず荷ほどきをして、スーツケースを空にしたら、移動日はすぐに日が暮れる。

92リットルサイズのスーツケース(molnのテラコッタを愛用中)には、いつも「HEAVYタグ」を付けられるのだが、その2/3は服。あとはお土産(これは今年のテーマで、お国のPR兼ねてあれこれ配り歩いている)と本も結構あると思う。

そんなこんなでいつまでたっても、この20キロ超えの荷物はスリムになる気配は無いし、空いているスペースにはこれでもかと、容量限界まで詰め込んでしまう、

我が生活の、どうしようもないほどの要領の悪さが、ここでも露呈するのだ。

生活の拠点を分散し、ここから更に、分散を続けるつもりで生きているくせに、過剰に荷物を持ってしまうのはなぜか。

これって単純に、効率が悪くないか?

この間やっと(遅)その事に気づき、理由を考えた。

増える荷物は当然「モノ」であり、その全てには買ったり、貰ったり、全てにおいて「手に入れるきっかけ」がある。

そのきっかけについて、改めて思い返してみると、どうやら私は、何かを手に入れる時にはいつも、それを手放すイメージも同時に持っているようだ。

つまり私は何かを買う時に、『これは自分以外の誰かにとっても価値あるものである』と確信したものしか手にしない傾向がある(たまに間違うし、めっちゃ主観的な確信ですが)ようで、それって私だけなのかな?と小さな疑問も抱いた。

実際に私は、比較的多くのものを持っている一方で、これまで、その半数以上を人に譲り渡してもいる。(もちろん無償で)

沢山の大切なものの中から、これというものを掴んで、必要なときに、必要な人にそれはもう惜しみなく手渡す。

多分ここまでが、ひとセットなのだ。

こんなの、経済合理性はバグっているし、効率化の対局にあることはわかっている一方で、そのためにこんな大人になったんだなと、妙にしっくりもきている。

そういえばかつてジョージアという国を旅した時、帰りのスーツケースには現地で拾った「石」が半分を占めてしまい、まんまと「HEAVYタグ」を付けられた事を思い出した。

その石も、半分以上は友人の手に渡っているはずだし、その何の変哲もない石の美しさとロマンについて友と分かち合う時間のために、私は重いスーツケースをひきずって旅から帰ってきた。

今だってそれと同じような日々なのだ。

※「一発書きチャレンジ」は、
私個人の文章を書くリハビリで、何の準備も、構想も、下書きも無く
文字通り「一発書き」で書きなぐったテキストです。








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