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香りは、”かしこ”にのみあり、ついに”ここ”にはない。

戦後の文壇において、異彩を放つ存在だった小説家 中井英夫は、祖父の代より植物学の系譜を持つ家に生まれ、自身もまた、香りをモチーフにしたさまざまな表現に挑んだ作家でもあります。

 「香り」とは気まぐれに不意に訪れ、またいつ知らず立ち去るもの。
  不在であることが約束事である中で、こちらも予期せぬタイミングで「香り」という高貴な客人が訪ねてくることは、稀な僥倖である

確かに、ふいに訪れる「香り」の存在に気づく瞬間は、捉えどころの無い世界が故に、とても耽美で刹那。
招き入れたいと思っても、追うほどに遠ざかり、目を凝らすほどに消えていきます。

平安時代の貴族は「香合わせ」と言って、さまざまな香をブレンドし、自分の香りを全身に焚きしめていたという話は、源氏物語をはじめとした平安文学にも明らかです。
直接顔を見ることを憚った、かの時代の人たちにとって、「香り」こそが、その人でした。

そんな「香り」を通した気配の世界を行きた、かの時代の人々ですが、
現代を生きる私たちにも未だ遠からず、同様の感性を日常に見つけることができます。

例えば、春先に香る沈丁花は、まずその香りでその存在を知らせてくれます。
そこにあるはずのない(と思っていた)香りが、そよ風にのってふいに訪れたとき、思わず歩みを止めて名残惜しくその場に佇む時間は、とても贅沢な僥倖です。

香りは、”かしこ”にのみあり、ついに”ここ”にはない。

「好きな香り」を“ここ”に留めたいという、意識的な香りとの付き合い方が日常にあふれる現代にあってなお、私は香りとの邂逅を待ち望んでやみません。


そしてその余韻を、忘れがたい記憶の片隅に刻んでいくことこそ、年を重ねていくひとつの醍醐味なのかなと、近頃思います。


会報誌Rinto 2019年3月号 巻頭コラムより

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