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「好き」だけではおさまらないもの 『自分をいかして生きる』読感①
著者は西村佳哲さん
(働き方研究家他、多方面でご活躍)。
前書『自分の仕事をつくる』の続編。
このことは恐縮だが本を読む中で知った。
セレクトショップで見つけたこの本に
自然と手が伸び、
購入後あっという間に読み終えてしまった。
人は、「人生で出会えて良かった本」というのが
あったりなかったりするんだろうが、
私にとってこの本はまさに運命的な一冊だったと思う。
あまりにも内容の一つ一つが
心を射止めてきて読みながら
「ぐあっ」と声がでた。
「どう働くか」ではなく
「どう生きるか・どう在るか」がテーマの本。
特に好きな部分を
少しずつ備忘録として載せてみる。
「好き」だけではおさまらないもの
「好きなことを仕事に」
私自身もつい気になるフレーズ。
そのことが述べられている中で、
こんな内容があった。
——「好き」だけではすまない。(中略)
気持ちがザワザワする。落ち着かない。みたくない。悔しい。
時にはその場から走り出したくさえなるような、
本人にもわけのわからない持て余す感覚を感じている人は、
そのことについて、ただお客さんではいられない人なんじゃないかと思う。
”ただお客さんではいられない人 ”
これには、言葉を失った。
実際、少し前に
この内容と全く一緒の経験をしたからだ。
私の話になります。
ある男性アイドルのコンサートに
妹達に連れられた時のこと。
コンサートは終始歓声が鳴り止まず、
素晴らしいステージとパフォーマンスだった。
コンサートが終わって、
妹達が満面の笑みで興奮冷めやらない中、
私にはなぜか「悔しさ」が込み上げていた。
どうだった?と感想を聞かれて、
格好良かった、とかの前に
「私もああなりたい」とか言って
ぽかんとさせた気がする。
ライブ中もパフォーマンスを楽しみながらも
どこかやるせない気持ちというか、
焦燥感があった。
これはどうしたものかと思ったし、
私はアイドルになりたいのか?
だとしたら随分と突飛なことを考えていないか?
自分に可笑しさと虚しさを感じた。
でも気持ちに否定はできなかった。
あの時の感覚が、西村さんの文章を読みながら
鮮明に蘇ってきた。
あぁ、あの感覚は確かに本心だったと思ったし、
それでいいといってもらえている気がした。
——焦りや疼きや動揺が生じた時、
目に映ったいったい「なに」に自分は反応しているのか。
小さな変化の足元を掘り下げてゆくと、
そこにそれぞれの仕事の鉱脈があるんじゃないかと思う。
中学生の頃、劇団四季の舞台をみた時
とても感動していたけれど、内心では
”私だったらもっと表現できる”
なんて沸々と思っていたことも思い出した。
(凄い自信、どこから湧いてくるのか)
”目に映ったいったい「なに」に自分は反応しているのか”
この部分を掘り下げていく作業というのは
とても小っ恥ずかしい、
誰にも見られたくない部分に光をあてるような
ことだと思う。
「本音」といってしまえば少し軽薄な気もするが、
深いところの「じぶん」に会いにいく、
その声になんとか耳を傾けてみる作業は
自分自身にとって意味深く、愛そのものだ。
私は、
自分を通じて溢れ出る
莫大なばくだいなエネルギーのようなものが
心の真ん中でうずうずとしているのを感じる。
この私という身体を最大限使い切って
”わたしを表現していくこと”。
それがしたいのだと思う。
それが私をいきることそのもので、
生かしていきる方法なんだろう。
「仕事」という概念が大きくかわる。
そしてそれは私だけでなく
きっと今地球を生きるほかのひとたちにも
いえることかもしれない。
出来ることからはじめていく。
日常の些細な「これやりたい」とか
「これが好き」とか
ひょろっと出てくるもの。
か細いパーツのひとつかも知れないけれど
それらは確実に、
心の奥底にあって今か今かと湧き出しそうな
無限大のエネルギーと繋がっている。
いつか、その穴がどかんと開く。
というか、もう開いているから大丈夫だ。
「好き」だけではおさまらないものを
淡々とやっていけばいい。
「はたらく」ということに囚われすぎていた
最近の私のかすんだ視野を、
ぱっと明るくしてくれた内容だった。
そして激励されるような感覚に、
感謝で胸がいっぱいになった。
最後まで読んでくださり、
ありがとうございます。
ほかのいくつか、
またシェアできたらと思います。🕊