100%の本音ですか?
「誰かが本音を言うと、誰かが傷つく。」
長らくそう思ってきたわけですが、私はどうやらサイコパスらしいということで、単純に「私の本音」が際立って他者を傷つけているだけかもしれないと最近は思うことがあります。
みなさんが本当に思っていることや考えていることを言語化したとき、まわりの誰かは傷つきますか?
「そんなのシチェーションや相手による」としか言えないでしょう。
ただ、私の場合、シチュエーションや相手問わず、傷つけてしまいそうな予感しかしないんです。
どんなに距離感の近い人であっても、私は本音を薄めながらコミュニケーションしています。エキサイトして、つい純度高めの言葉を使おうものなら大抵イヤな顔をされます。また、変にそれに気づくのも得意なので、「やってしまった」といつも後悔するのです。
これもまたサイコパスの特徴らしく、気持ちがよく分からないため相手のリアクションを論理的にパターン学習してしまうようです。相手のリアクションを読み取る力は、交渉力の求められる社会においては有利に働きます。
しかし、気持ちのコミュニケーション(非合性が求められるコミュニケーション)では致命的です。
気持ちのコミュニケーションにも関わらず、相手の気持ちを考えて自分の気持ちをおざなりにした言葉を使うか、自分の気持ちを素直に言葉に表現して傷つけるかの2択しかない。相手をコントロールしたいという何か裏目的があるなら迷わず相手の言葉を選ぶでしょう。
でも、そうでないとしたら、あなたならどうしますか?
私は、気持ちのコミュニケーションを避けるという3択目を選んでいます。
以下の3つの言葉を読み比べてください。
「宗教的」
「強い思想」
「とても大切にしているこだわり」
言い方によっては、どれも似たようなニュアンスで受け取ってもらうことができます。
まったく同じ意図の話を、「宗教的」と言えばドン引きしてされてしまう相手に「とても大切にしているこだわり」と言えば受け入れられる。交渉のテーブルでは、これは正解だと思います。
しかし、自分の気持ちを表現したいときには、どうすればよいのでしょう。
再び、さきほどの2択で悩まされるのです。
本音を、本心から出てきた言葉だとすると、本心を言葉で表現できていないのなら、それは本音じゃないのではないか。
本当の音色で奏でることだとしたら、「意味がなんとなく同じように通じればよい」というレベルじゃいけないのではないか。
テレキャスターで弾いてある楽曲をレスポールで弾くようなものじゃないのか。それは「同じエレキギターだから」みたいな解像度の低い感性ではないのか。
そのように考えると、本音という本音をリアルの生活の中でほとんど言葉にできていないことに気づきます。
私の場合、自分の本音と向き合う場としてnoteを毎日書くことで、薄まってしまった本音を見失わないように努めています。
みなさんは100%の本音を表現し、誰かに伝えられているでしょうか。
追伸
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