評価する主体としての私
私たちは、ときどき社会システムの「中」を生き過ぎる。いつの間にか「権力サイドから一方的に評価される客体」になり下がってしまう。
年収がいくらであろうが、仕事の出来がどうだろうが、言語化が得手不得手であろうが、「私」という存在が目の前の物事を評価する主体であることに変わりはないはずなのに。
家から徒歩5分の最寄駅へ、実際に5分前に家を出て歩いたら、案の定電車に乗るのがギリギリだった。5分前に家を出た事実という名の観察結果と、ギリギリだったという解釈を経て、5分前に家を出るのでは遅いと評価する。次回から、10分前に家を出ようと判断を下す。
私という主体は、観察→解釈→評価→判断というフローを日常的に実行している(冷静さに欠く人は、観察から評価までをすっ飛ばして判断をしてしまいがちだが、能力というよりは意識の問題のような気がする)。私たちはまぎれもなく、評価する主体なのだ。
評価する主体である自覚が乏しいと、実に悲惨である。会社からどう見られているか、直属の上司からどう見られているか、同僚からどう見られているか、後輩からどう見られているか、家族からどう見られているか、道行く人からどう見られているか。他者からの評価ばかりが気になる。相手を評価している自分が同時に存在することに気づかずに。
人と関わるということは、一方的に評価されることでもなければ、一方的に評価するのでもない。双方向的に評価し合うのだ。もちろん、評価の反映のされ方は「権力」に依存するわけだが、そんなものはあくまで「社会システム」の檻の中の話だ。「社会的地位」は具体的に共有可能な形で位置付けられるにせよ、あなたの「存在」まで具体的に共有可能な形で位置づけることはできない。存在は、いつも自由だ。
評価する主体としての私、評価される客体としての私。両方のバランス感覚を持とう。多くの場合、評価される客体に偏っている。無意識的に行なっている評価を意識的に行おう。
たとえば、無能な上司に一方的に評価されることが苦痛なら、思い出す必要がある。「無能な上司」と評価している主体としての私を。
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