答えのある排除、答えのない淘汰
答えが決めつけられることに対して、窮屈に感じてしまいます。答えがないこと、答えを自分で決めてよいこと、そういう態度に心地よさを感じます。
この宇宙に勝手に意味づけしてガチガチにしてしまっているのは人間であって、絶対的に決まった意味などこの世に存在しないという立場を私は取っています。答えがあると思い込んでいる人たちの認識に巻き込まれるのは窮屈なんですね。
自分に合った答えを出す方向性
私ほど強烈ではないにせよ、時代の流れとしても「よく分からないことを勝手に決めつけないようにね」という方向に向かっていると思います。
差別は、その最たるものです。「男だから」「女だから」などと今どき言っているとバッシングの対象になりますよね。
男だからって立ち振舞いが決まっているわけじゃないし、女だからって生き方が決まっているわけじゃない。男にも色々いれば、女にも色々いる。一人ひとりが、自分に合った答えを自分で出せばいい。そんな社会へ、(まだほど遠いですが)一歩ずつ近づいているような気がします。
普通という差別
「一人ひとり違うんだよ」という世界、絶対的な答えがないことに耐えられない人々が一定層います。というか、マジョリティかもしれません。
「普通、こうだから」とか「常識だから」と他者に押しつける人々です。
「答えがある」という認識の根本に差別意識があることを彼らは自覚できていません。
「普通、女は家にいて子育てと家事をするのが当たり前でしょ」などとかつて思っていた人と「普通、男女共働きでしょ」というのはそんなに変わらないのです。その時代の傾向(普通)にただ適応しているだけ。
「普通、お茶漬けは永谷園だよね」とか「普通、ジュースはオレンジだよね」はまだ可愛いものですが、その延長線上に「普通、就職するよね」とか「普通、謝るよね」とか「普通、奢るよね」とエスカレートしていき「普通、男は〜」「普通、女は〜」みたいな差別レベルにまで発展すると私は考えています。
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