表面的には行動の賜物だが
思うに、私の人生を大きく変えてきたのは「人との出会い」である。表面的には行動の賜物だ。
しかし、行動だけではなかったのも事実だ。思考が追いついていなければ、その人との出会いをそもそも意味あるものとしてキャッチできなかっただろう。
マンションの管理人について
私の人生のターニングポイントの1つに、福岡市に引っ越してきて最初に住んだマンションの管理人との出会いがある。
ただのクソジジイと思っていたが、言われたとおり行動してみたことで福岡生活が意義あるものに様変わりした。ライブハウスに勤務するようになり、その後の音楽活動は充実した。
お爺様様である。
可愛がられる or 交渉する
思考を止めて、ただ行動したというわけではない。
行動しなければならないことは分かっていた。何からやればいいのか。考えに考え、もつれていた。そんなときにお爺様の言葉に煽られ、結果として行動に移せた。
思考と行動が噛み合った瞬間である。そうなると行動した先でも「交渉」ができる。自分は何のためにその行動を起こしたのか、相手に説明ができる。
思考停止で走り回っているだけではこれができない。
「何で走っているの?」
「分かりません!」
これではせっかく興味を持って声をかけてくれた人も呆れてモノが言えない。もしくは「仕方ねえなあ」と可愛がられる(お節介をやかれる)。
可愛がられるのが得意な人は、何も考えずに行動しまくってキーパーソンに引き上げてもらえばよい。
私はお節介されるのが大の苦手だ。義理みたいなのが発生することで、人生がこの上なく不自由に感じる。
私と似たような人間は「可愛がられる」ではなく「交渉する」態度で臨むべきである。もちろん、まっすぐ交渉しても交渉にすらならないので工夫は必要だ。
そのためには、行動と思考は必ずセットであることを忘れてはいけない。
考えているか
むやみに行動していても、まずチャンスに気づけない。
「何で走っているの?」
この一言がチャンスかもしれないと検討できる感覚がないと、考えているとはいえないだろう。
海外旅行に行って、移動距離がものすごいからといって、その行動にどれぐらいの価値があるのかは分からない。そこで何を見て、何を感じ、何を考えたのか。
思考のない行動は穴の空いたカバンと同じである。歩くたびに、中身を落としてしまっている。カバンに入れたという事実が重要なのか、今もなおカバンの中に入っているという事実が重要なのか、それこそよく考えたい。
行動しているか
学生時代はあれだけ「進路が…」と一寸先を不安に思い、試行錯誤していた人間たちも、外的にハードルを課されなくなるうちにだんだんレギュラー化してしまう。試行錯誤という概念すら忘れ去ってしまう。
自分でハードルを課す人間はマイノリティである。多くの人間は(自分にとっての)レギュラーの中に生きていて、イレギュラーへの耐性が異常に低い。むしろ積極的にイレギュラーを避けようとする。
それはそれで構わない。だとすると、レギュラーはそれなりに完成度の高いものであってほしい気はする。
レギュラーとイレギュラー
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