共同生活と家事 (前編)
誰かと一緒に暮らすということ。
未婚カップルの同棲、結婚後の同棲(これ何ていうの?)、シェアハウスなどでの共同生活など、どのような背景であれ家事がくっついてくる。
他者との共同生活は家事と密接に絡んでおり、適切なバランスを保たなければ不満だらけの生活になりやすい。
家事への不満
既婚者の話を聞いていると、特にパートナーの家事へのコミットメントの低さに不満を感じている例が多い。圧倒的に女性に多いのだが、つまりは女性が家事をしている家庭が多いということなのだろう。
家事への不満をまとめると、①そもそも家事をあまりしない。②たまにやったかと思ったらクオリティが低い。ということらしい。
家事をしない
「①家事をあまりしない」というのは、どちらか片方に家事が集中し、不公平な作業バランスになっているということ。
昔のように、男が働き女が家を守るみたいな単純な役割分担なら家事においては不公平などという考えはないのだろうが、それではもっと大きな不公平に飲み込まれている。
男女平等を謳う複雑化した現代社会においては生き方はもちろん、役割の在り方も複雑化している。複雑化した社会においては、一人ひとりが正解である。間違いを指摘することは難しい。もしそれを望むなら、間違いと正しさについて哲学的な議論を展開することになる。
具体的な議題は共同生活者同士の共通のルールでも敷いていないかぎり、議論で分かり合えることはまずない。とはいえ、共同生活においてビジョンや今期の目標を設定して会社的に運営するのも窮屈である。
複雑化したライフスタイルとルール不在の共同生活は、認識の解像度を高めないかぎり相性が悪過ぎる。
家事のクオリティが低い
「②たまにやったかと思ったらクオリティが低い」というのは評価基準の問題である。
普段、家事をしまくっている側の家事レベルが「その家庭の家事レベル」になるため、(何となく)それを基準にクオリティが評価されてしまう。
仕事で考えれば分かるが、マーケティングの仕事に7年間従事している人と、ときどきマーケティングっぽい業務にふれる人とではクオリティが違うに決まっている。もし、違わないのであれぼベテランは無能であると言わざるを得ない。また、同じマーケティング業務に従事していても、A社とB社では、考え方ややり方が異なる場合が多い。
かなしいかな、家事をやればやるほどやらない側との実力の差が広がり、「あるべき家事レベル」が引き上げられ、やらない側はクオリティの低い家事をやる理由が益々なくなっていくのである。
共同生活と家事
共同生活と家事にまつわる課題を整理しよう。
複雑化した社会において、役割分担の在り方も複雑化している。価値基準を明文化し共有しないかぎり、議論は建設的になりえない。よりどころ不在の議論をしたところで、ディベート的にどちらかがどちらかをねじ伏せ、納得したフリをして収束するだけである。双方に納得のいく答えにはたどり着かないだろう。
また、家事レベルの基準が家事をする側によって暗黙の中で定められ、家事をしない側が家事をする理由がなくなっていく。家事をする側はすればするほど家事をすることになるし、家事をしない側はしなければしないほど家事をしないという悪循環に陥る。
では、一体どうすればよいのだろうか。
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