意味の脆弱性
一層目から虚無っているわけではなく、意味の意味の意味を考えていくうちに「意味なんてないよね」というところにたどり着く。まわりまわって虚無っている。
誰かが意味らしいものを語るとき、たとえそれがどんなに多くの人から支持されるようなものであったとしても、最終的には一人ひとりにとっての意味でしかない。
たとえば、新型の何とかウィルスをあなたはどのように意味づけているだろうか。
ある人はデータを熟知し「リスクが高い」と言う。またある人はデータを熟知した上で「大したことない」という。ある人はデータを知りもせずに「命が危ない」と言うし、ある人はデータも知りもせずに「大丈夫だ」と言う。ある人は知り合いが重症化したから「こわい」と言うし、ある人は知り合いが軽症だったから「こわくない」と言う。みんながみんな、1次情報、2次情報、3次情報混在で、自分が見聞きしたものを自分のレベルで情報処理し、好き勝手に意味づけしている。
真のウィルスを見ることは、誰にもできない。結局のところ、何とかウィルスの真実は人の数だけ存在する。みんなの意味なんてものは存在しない。何とかウィルスについて語るとき、誰も何も分かり合えていないのではないか。別にウィルスに限った話ではない。すべての物事がそうだ。
最近の私は、「言葉」に対して不信感がある。誰かと「分かり合えた」という感覚自体が思い込みであり、まやかしの中のまやかしであると思っている。
「このリンゴは赤いね」「そうだね」という会話一つとっても、赤さをまるで共有できる気がしない。まやかしを楽しむことはできても、信じることはできない。
確かに、解像度が低いなりにでも言語化し、誰かと意味を共有しようとすることで、それがよりどころとなって比較的安定した関係は築ける。ところが、そんな関係を支える意味も、意味の意味の意味までたどったときには大して何も共有できていないことが露呈される。そんな現実を見たくないなら、人間関係は表面的に済ませておくのがお作法なのかもしれない。
言葉でつくられたこの社会で、命をかけて何かに取り組むにしては、あまりにも意味と向き合い過ぎてしまった。意味の意味の意味の虚無を感じ、言葉に不信感を持つということは、社会そのものに不信感を持つということでもある。
意味に生かされてきた私は今、意味の脆弱性に頭を抱えている。
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