野心はいらないかも
「この5年間で、野心という野心がすっかりなくなったんだよね」
私がそう言うと、友人はこう言った。
「等身大の自分になったってことじゃない?」
肯定的な言葉に聞こえて嬉しかった。
ただ、私は一体どこで野心をなくしてしまったのだろう。
かつて野心を持っていた
野心、それは「自分の分をこえた望み」である。
地位、名誉、財力、など自分の現状からは到底考えられないような望みを思い抱くこと。
10代、20代の頃、バンド活動で世界を変えようと本気で思っていた。民を救いたい系のど真ん中にいた。結果としては、ただのホラ吹きとなってしまったのだが。
バンド活動を趣味と割り切ってから、紆余曲折を経て、小さな教育系のベンチャーに参画した。
自社をソーシャルベンチャーの類だと私は認識している。
最初は野心を持って仕事に臨んでいたが、いつのまにか野心らしいものがすっかりなくなってしまった。
野心が溶けた
社会課題というのは、往々にして「社会みんなの課題」というロジックが組まれることが多い。しかし、課題かどうかは解釈の話であり、どこまで行っても「人それぞれ」である。課題だと思う人とそう思わない人がいる。どちらも正しいと言わざるをえない。
だからといって、対象を見過ごしてよいかと言われるとそんなことはないだろう。単純に、見過ごしたい人は見過ごし、見過ごせない人は見過ごさなければよい。見過ごさない人の数が一定数を越えれば見過ごさない方向に物事は進むのだろう。ハーヴァード大学の政治学者エリカ・チェノウェスらの研究によれば、3.5%の人々が本気で立ち上がると、社会が大きく変わるということだ。
そう考えると、課題意識が社会全体と共有できないことを嘆き散らすのは非合理そのもの。そんな時間があるなら「いかにして3.5%に達するか」ということを具体的に考えて実行したほうが合理的というものである。そういう態度にはテーマこそ必要不可欠であるが、野心は必ずしも必要ではない。
テーマに対し日々思考をめぐらせ、日々やるべきことをやる。
以上。
私の野心は溶けてしまった。
テーマの重要性
人生は、おそらく無意味だ。
「10兆円の資産をつくって豪遊したいです」
「で?何かそれ意味あるの?」
意味を生き生きと答えられないのなら、生きるに値しないとまでは言わないが、かぎりなくそれに近い人生だと私は思う。
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