感情の正しさを証明するために事実を歪めて認知する
「言葉が通じないな」とストレスを感じることが多々あります。とはいえ、そのストレスを悪いものと思わないように意識しています。言葉が通じる相手とばかりコミュニケーションしていると、あっという間に「そうでないもの」を許容できなくなりそうなので。
何といっても私はサイコパスです。少数派。「許容できない」なんて言っていたら、社会から許容されなくなるでしょう。
パラレルワールドに挑む
一番分からないことは、人々の感情がなぜそこで動いてしまうのか、ということです。頭では理解できても、心では理解できません。
たとえば、話を進める上でお互いの事実認識を共有するのは自然なことでしょう。そうでなければ、それぞれがパラレルワールドにいるようなコミュニケーションにならざるをえません。Aさんは九州を日本の一地方と認識し、Bさんは九州を独立国家だと認識していれば、話が噛み合うはずがありません。いや、本質的にはパラレルワールドになんだと思います。いくら九州を日本の一地方だと合意したとしても、その質感は人それぞれ無限に異なるわけですから。
それでも、コミュニケーションするからには少しでもそれを和らげ共通了解を増やしていく態度が大切だ、と私は言いたいのです。
事実認識の確認さえ危うい
「(良いとか悪いとか置いといて)事実、今こういう状況ですね」という事実認識の確認の段階で傷つく人、怒り出す人が結構たくさんいらっしゃいます。残念ながらまだ私の意見を一つも言っていない。意見の手前の段階で、(ある種私の関係のないところで)気分を害される。事実の確認でさえ、気持ちが動いてしまうのです。
「今、これ気持ち全然関係ないところですよ」などと言おうものなら、火に油を注ぐようなものでしょう。だから、感情が動き始めるとよく観察するようにしています。
感情の正しさを証明するために
事実と感情を分けること、印象にとどまらず、主観と客観を行き来して主観を研ぎ澄ますこと。私にとって、それはきわめて自然な思考態度です。
ところが、世間一般では真逆のことが平然と行われています。事実と感情をごちゃまぜにし、印象のまま解釈し判断をくだす。主観、主観、主観の意思決定です。
こうした感情に依存した思考プロセス(思考と呼んでよいのかすら分からない)は大きな問題を孕んでいます。
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