STOP! 役割と人格の一体化
「社長」とか「ママ」とか、役割を呼称とするカルチャーへの違和感と危険性について意見を述べたいと思います。
まずその前に、社会はシステムであり、システムを成立させるためには機能が必要です。機能というのが、役割のことです。
会社組織でよくあるのは、社長、部長、次長、課長、係長みたいな、階層ですね。一人ひとりが役割を果たすことによって、会社というシステムがきちんと機能するわけです。会社というのは、仕組み中の仕組みですので、合理的に説明が付きやすいものです。
家庭もまた役割の宝庫です。父、母、長女、次女、祖父、祖母など。しかし、家庭の場合は、実に情緒的で合理的に説明がつかないことも多かったりする。ちょっと分かりづらいけれど、存在さえも機能の一部と言えるのかもしれません。
母のような役割を果たす祖母
両親が出ずっぱりの家庭で、「祖母が母の代わりをしてくれました」みたいな話はよくありますよね。
母親チェックリストみたいなものがあるわけではないにせよ、「母の役割とは」みたいなものがイメージとして何となく他者間で共有されているわけですね。
では、祖母は「母」なのでしょうか?そんなことはなく、母の役割を果たした一個人でしかありませんよね。法的に母ではないし、自分自身もまた祖母という自覚がある。その上で、母の代わりに母親役をやっている、という状況です。
孫からすると「まるで母親のような存在の祖母」ということになるでしょう。それは、孫は祖母のことを「母」のような役割を果たしてくれる「祖母」と思っている、と言い換えることができそうです。
ラベルの中身はもっと複雑
役割というのは、必要な機能に対し、便宜上名前をつけている(ラベルを貼る)だけだということなんですね。
社長に「社長」というラベルがなかったとすれば、「すごい偉い人」とか「会社のトップ」という表現になってしまいます。「社長」のほうが、当然ながら社長という役割をイメージさせてくれますよね。便宜上名前をつけているとはそういう意味です。
少し想像してみると、ラベルは表面に貼られたものであって、中身はもっと複雑だということが分かります。
社長は、ある人から見れば、365日24時間社長かも知れませんが、家に帰れば父かもしれません。実家に帰れば子ですし、旧友と会えば友です。いろんな役を持っている。
これらの役を上手に切り替えていかないと、単純に不和が起こります。仕事の役割を引っ張り過ぎて、家庭で家庭の役割に徹することができず、不和が起こっているような家庭は山のようにあります。
「頭では分かっているけど、うまくできなくて」というのは、器用さとか能力の面なので、今回は触れません。どちらかというと、ここでは頭でさえ分かっていないことを問題視しています。
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