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文明と文化の距離感

福岡市中央区天神のお馴染みの風景は「福ビル街区建替プロジェクト」によって破壊され、新たな街並みが創造されようとしている。

その話は随分前から知っていた。とはいえ、実際に目の当たりにしてみて「いよいよ、変わるんだな」と実感した。

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この写真のちょうど空が覗けるあたりに、「福岡ビル」と「天神コア」という2つのビルがあった。

私自身、そこに大した思い出はない。福岡ビルのTSUTAYAで本を探したり、10年以上前に天神コアの屋上(あれ、ビブレだっけ?)でやっていたフェスに遊びに行ったぐらいか。

その程度の記憶であっても、「天神コア」というと天神に訪れたことのある人からすれば記憶のどこかに残っているはずだ。それぐらい存在感があった。

街並みが変わる。

街並みが変わっていくことに、どのような心象を抱くだろうか。それぞれが持っている記憶に大きく左右されるのはもちろんだが、それを差し引いて考えてみても、街並みが変わっていくことに対する肯定的な感覚や否定的な感覚は個人の価値観として持っていそうなものである

思い出話は「そうですか」としか言えないが、変わっていく街並みに対する価値観については大変興味深い。

これは、文明と文化のせめぎ合いなのだ。

何かを残すということ。たとえば、1000年残すことで、当たり前の日常が文化遺産のように扱われる。今、着物が何か尊いのは多分そういうことだろう。昔の普段着がやたら尊い。天神コアもあと1000年ほど残せば、何か別の未来が待っていたかもしれない

一方、壊して創ることで、日常の延長線上にはない特異な進化(退化)を遂げることができる。結果として、私たちは手のひらの上のスマートな板によって世界とつながることができているし、洗濯機のおかげで洗濯板で洗濯する方法が分からない。

これらは単なる善悪では語れない。それぞれ真っ当なメリット・デメリットがある。もはや、ここにあるのはただの好き嫌いだ。残すほうが好きか、壊して創るほうが好きか。

ただの好き嫌いの話にも関わらず、文明と文化は均衡しない。今の世の中は圧倒的に文明に飲み込まれてしまっている。最近ではアートへの関心も高まっているようだが、結局は文明の中の一部として取り込まれた文化に過ぎない。パセリみたいなものだ。

なぜこんなことになるのか。文明は文化の上位概念なのか。いや、そんなことはない。単に、文明と資本主義の仲がよいからではないのか。残しておくよりも、壊して創ったほうがより多くの人のお金が動く。ゲームの性質上、文明が圧倒的に有利なのである。というか、そもそも文明のためにつくられたルールなのだろうとも思う。

だから、どれだけ既存のルールに文化を入れ込んでみても、文明に取り込まれたパセリにしかならないのである。文明派はシステムを振りかざし、ごり押しする。一方の文化派は文化派で、結局文化でごり押ししがちである。正面からぶつかってみたところで、システムそのものを議論しないと文化に勝ち目はないだろう。

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