「ない」と「ある」の二重規範の中で
ここ最近、抽象的なことばかり考えている。「考えている」と言ってよいのか分からないほど、ぼんやりしている。
そんなぼんやりしたことは、ぼんやりとしか言語化できそうになく、文章にしたためるのも憚られる。何も言っていないに等しいようなことを文字に起こすことになりそうだ。毎日書いてアウトプットするには、少しサイズの大きすぎるテーマである。とてもじゃないが、書く気が失せる。ただの言い訳ではあるが、正直そんな心持ちである。
ぼんやりしている。
とはいえ、ほぼ毎日書いていくこと、本音を書き綴っていくのが、このnoteである。ぼんやりしているなら、ぼんやりしたことを書けばよい。そう自分に言い聞かせ、ぼんやりした頭のままpcの前に座っている。
私のアカウントはある
何をそんなにぼんやり考えているのか。「私」というまやかしについて、である。
最近、東洋哲学関連の本を読んでいるせいで、「私」について考えることが多い。「私はない」と言われれば、確かにその通りだよねと思う。理屈的にも感覚的にも、理解できる。本質的にはそうだろう。
しかし、私たちが生きているこの社会は別に本質的なわけではない。それどころか、全世界的に虚構のネットワークが張り巡らされている。
「私」はないのだとしても、「私というアカウント」はプラットフォーム上に存在している(誰かがボタン一つで消し去ることのできるようなものばかりではあるが)。ここでいうプラットフォームとはSNSのような一企業のサービスだけではなく、戸籍であるとか国家レベルのプラットフォームも含む。
国だろうが一企業だろうが、サービスを利用しようと思うと、アカウントの作成が求められる。TwitterやInstagramのようなものから、ホテルの宿泊、体育館の利用のようなものまでオンラインでもオフラインでも「あなたは誰ですか?」と問われる。
メールアドレスや電話番号、名前や印鑑、身分証、戸籍などを用いて「私です」と証明する。
このとき間違ってはならないのは、「私です」は「私のアカウントです」という意味であることだ。電話番号なんてただの数字だし、メールアドレスなんてただの文字列、戸籍なんてただの紙。ただの証明書である。
生体に紐づいたアカウント
「私のアカウントです」というのであれば、「では、そのアカウントを所有しているのはどこの誰ですか?」ということになる。「いや、この顔、この声、この身体の私です」と言いたくなるだろう。
「確かに、電話番号ぐらいではガバガバですね」と、指紋や虹彩による生体認証をすれば解決するのかもしれない。
「体育館を利用したいんですが」
「では、こちらでDNA鑑定をお願いします」
というような日が、そのうち訪れるのかもしれない。プラットフォーム上でアカウントの管理を厳密に行なっていくのであれば、それが合理的というものだろう。
ただ、生物学的に「私」の生体としての個別性を特定したとして、それが「私」なのだろうか。電話番号を元に、メールアドレスを元にアカウントを作成するのと同様に、「私の肉体を元にアカウントを作成しました」と言っているに過ぎないのではないか。
意識はどうする
というのも、このままでは意識が放置されてしまっている。意識をどのように取り扱えばよいのか。
たとえば、私が何らかのアバターを操作する。そこに没入できれば、意識はアバターのほうに臨場感を覚える。このとき、役所に保管されているアカウントのことは忘れている。ただし、アバターに身体性を感じるのであるが、その身体も所詮アバターが存在するプラットフォーム上のひとつのアカウントに過ぎない。私はどこにいる。
また、アバター問題とは別に「私の範囲をどのように定義するか」という問題もある。たとえば、誰かに強く依存して「あなたと私を合わせて私なの」というふうに私の意識が感じているとしたらどうだろう。社会というプラットフォームでは、ただの「メンヘラ」で片付けられてしまい、悪質な場合は逮捕されることもあるだろう。なぜなら、それは社会というプラットフォーム上においては、他人のアカウントの乗っ取り行為に他ならないからである。
結局、生体に紐づいた一個体を単位としたアカウントへ責任を詰め込むことで、プラットフォームに対しイレギュラーな振る舞いをする者を「誤差」として処分することで、何とか丸く収める。そういう管理をしているのだ。
「ない」と「ある」の二重規範の中で
こんなことを考えていても、明らかになるのは「私のアカウント」のことばかり。一向に「私」そのものに辿りつく気配はない。
それもそのはず。東洋哲学の偉人たちが言うように、「私」などきっと存在しないのだろう。「私」という思い込みに他ならないのだ。
「よーし、じゃあ悟ろうぜ!」
…話はそう単純ではない。今や、虚構のネットワークは地球上に張り巡らされている。たとえ山奥に移り住んだところで、その干渉から逃れられない。そこはきっとプラットフォーム内の誰かのアカウントが所有する土地なのだから。
あらゆるプラットフォーム上に「私というアカウント」が存在し、極めて流動的な「私」と呼ばれる何かは、極めて固定的な「私のアカウント」として責任と権限を与えられている。
「私」はないが、「私というアカウント」はある。
単純に悟っている場合ではなく、「ない」と「ある」の二重規範の中でしなやかに生きていくことが求められている、そんな時代なのではないか。いや、誰がそんなことを求めているんだろう。私が勝手にそう思っているだけだろう。で、ところで、私は誰なんだ。取り急ぎ、この文章をうえみずゆうきのnoteアカウントから投稿する。
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