やりがいのある仕事
求人広告で「やりがいのある仕事です」と謳っているのがあれば、まず無責任な会社だと思って間違いない。与えられもしないことを書いているなんて、どう考えても無責任だろう。
たとえ、どんなにやりがいを感じやすいと思われる環境を用意したとしても、やりがいを感じるか否かは働く本人の感覚でしかない。第三者が勝手に「やりがいがある」と決めるのはおかしいだろう。働く本人が自分の意見として「やりがいがある」と述べるのはよいが、雇用する側が「やりがいがある仕事ですよ」などとは言うべきではない。
やりがいは条件じゃない
警察官はやりがいのある仕事だろうか。医師はやりがいのある仕事だろうか。工場長はやりがいのある仕事だろうか。営業職はやりがいのある仕事だろうか。内閣総理大臣というのはやりがいがある仕事だろうか。そんなものは「人による」としか言えない。
いくら富や名声を得られようとも、いくら誰かの役に立っていることが実感できようともやりがいがあるとは限らない。いや、やりがいが内から湧き起こるのであるなら、自分が「好き」とか「得意」なことであればやりがいが生まれるに違いないと思うかもしれない。しかし、話はそう簡単じゃない。
誰かの役に立つことができそうないくつかの得意なことがあるとしよう。さらに、そのうちの一部は好きなことでもある。得意で好きで、なおかつ世の中のニーズがあるとしよう。つまり、仕事にもなる。見るからにやりがいがありそうだ。さて、仕事が始まった。そのとき、気難しくていじわるで粘着質な顧客とのコミュニケーションが不愉快に感じたなら…。いくら得意だろうと好きだろうと、さっそくやりがいは削がれてしまうのではないだろうか。
やりがいというのは、これが揃えばOKというようなものではない。一見恵まれていても、ちょっとした変数で簡単に損なわれてしまう。
やりがいは自分で見つけるしかない
一方で、自分自身がやりがいを感じさえすれば、それはやりがいがある。たとえ劣悪な労働環境であろうとも。やりがいは本人が決めることだ。給料や労働時間や仕事内容で測れるものではない。
もちろん、本人がやりがいを感じているからといって、非人道的な労働が許されるわけでは決してない。ここで言いたいのは、どのような状況下でさえ「やりがい」は生まれるかもしれないという事実である。すなわち、天国でやりがいを感じない人間が、地獄でやりがいを感じることだってあるのだ。
あらためて、自分以外の誰かに対し「やりがいのある仕事だからやってみないか?」と勧誘することが、いかに無責任なメッセージかがよく分かるだろう。給料や休みや働き方といった具体的な事柄は、事実として伝えればよい。しかし、やりがいは本人の内側から湧き起こる何かである以上、相手がとやかく物申すものではない。
翻って、「仕事にやりがいがないんだよね」などと言っている人は、単に自分が見つけ出せていないだけの可能性が大いにある。
確かに、恵まれた環境ではないかもしれない。それでも、やりがいは(もし、ほしいのなら)他者から与えてもらうものではなく自分自身で見つけ出すほかないのだ。
これは根性論ではない。ただの事実である。
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