感性は温泉、論理は水路
合理性を追求することほどつまらないものはないと思っています。「正論」だけで終わってしまうと、人間一人ひとりの価値観のバラつきなんてものはもう無視したほうが合理的だということになってしまう。
こんなことを、共感能力が低く、つい論理に偏重しがちなサイコパスの私が言うと意外に感じるかもしれません。でも、本当にそう思っています。
たとえば、経営をしていると、合理的な判断や決断を下さなければならない場面も多々ありますが、一方で非合理なこと、感性に基づくものも取り入れていかないとまったくつまらないのです。
合理性の追求≒全身整形の美
合理性100%というのは、全身整形の美みたいなもので、人間味がまるでない。全身を整形するより、不完全だからこその美しさ、自然さみたいなものに少なくとも私は惹かれます。
「正論では人は動かない」と言いますが、論理単体のつまらなさを物語っています。
感情や感覚に訴えるような、または感情や感覚でキャッチするような、非言語的な「感性」はとても大切だと思っています。
主観的体験の域を出ず、個の中に閉じる
では、感性さえあればよいのかというとそうではない。
感性単体では、個人の主観的体験の域を出ず、個の中で完結してしまいがちです。誰かと、より具体的かつ詳細に相互理解をはかろうと思えば、言葉や数字や図を用いるほかありません。それは、まさしく論理です。
想像してみてください。
絵や音や造形物や映像などで何か作品をつくり非言語的なメッセージとして誰かに届けるとします。そのとき、受け取った相手にはきっと相手が感じた印象以上も以下も生まれていません。
Aさんは「平和を願う」というメッセージを作品に込めたのに、Bさんは「援助交際はよくない」というメッセージとして受け取ったとしたら、そしてそれをどのように解釈したかをお互い言葉や図を用いて確認せずに、一緒にうなずいていたとしたら。まったくすれ違って、まったく違うものを見ている二人がそこでただうなずいている。何とも不思議な感じがしますね。
お互いがどの地点に立って、何をどのように解釈したのか。相互理解のプロセスに、論理は欠かせないのです。
感性は解釈や発想に直結すると思います。感性は「その人ならでは」が多分に含まれるダイヤの原石。そう思う反面、論理なくしてダイヤにはなりえないとも思うのです。Aさんが勝手にダイヤだと思いこんでいるだけで、Bさんには石ころにしか見えないかもしれない。確認作業を行うまでは、勝手に思っている同士なのですから。
感性は温泉、論理は水路
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