何かを選ばないということ
私は、パートタイムで働くシングルマザーの家庭、控えめにいって貧しい家庭に育ちました。
貧しいけれども、たくさんの愛を注いでもらいました。おかげで、心の充足感はありました。
今、客観的に振り返ってみても、絵に描いたような貧困家庭のダークサイドに堕ちなかったパターンです。
感謝しかありません。
余裕ねえ
さて、そんな私の子どもの頃のお話。舞台は、炭鉱が廃れた後の寂れた田舎町。
自分の家庭がどれぐらい貧しいかというのは子どもながらによく理解していました。
具体的な数字で把握していたわけではありませんが、まわりの友だちと比較して相対的に貧しさを自覚することができました。
友だちの家に行けば、キャッチボールのためにわざわざグローブがある。マンガの単行本がずらりと並んでいる。自分の部屋にテレビが有る。週刊少年ジャンプが毎週買われて無造作に床に転がっている。
「雑誌なんて毎週買う余裕ねえ」と心の中で思ったものです。
というか、読みたければ友だちの家で読めるし、仮に余裕あっても買わなくていいやという貧乏ならではの感覚もありました。
ポジションを買う
小学4年生になると、同級生が急にオシャレになり始めました。
「お前ら、今まで安物のジャージしか履いてなかったやないか!」と思いましたが、社会(学校)の波がそうなっている以上、健やかな学生生活を送るためには、多少オシャレにも気を使わなければなりませんでした。人は見た目でも判断されるからです。
母には大変申し訳なかったのですが、リーバイスのジーンズをおねだりしました。
「え!1万円もするの?!」
今まで数百円のジャージを履いていたわけですから、1着10倍です。母はドン引きしていました。
貧しいことは百も承知でした。心が痛い。それでも、私は引きませんでした。
せっかく楽しいグループに所属して毎日が楽しくなってきたのに、ダッサイ服を来て軽蔑されるのは絶対に嫌でした。今の関係性が崩れるかもしれない。そんな危機感がありました。
「そんな表面的なことは本質じゃない」
分かります。
現代は、学校の代わりとなる場所がたくさんあるし、何も学校の中でうまくやっていくことだけが必ずしも正しいことだとは思いません。
けれど、あの当時の社会や私の家庭環境を考えると、学校でうまくやっていけないとほとんどお先真っ暗でした。
1万円を使って1着のジーンズを買うんじゃない。1万円でポジションを買うんだ、と。
貧しいとはいえ、1万円の支出は妥当だったと今でも思います。
貧乏というレッテル
子どもたちは素直です。「貧乏」というレッテルを貼られてしまうと、貧乏人扱いされます。
イジメられるとかいう強烈なことだけではなく、経済面に配慮されるという善意で遊びに積極的に誘われなくなることがありました。
私は、ファッション戦略が功を奏して、イケてるグループの中でリア充生活を送ることができました。
一方、そこまで貧しくないけれど、ファッションがダサすぎて、機会損失している友だちもたくさんいたように思います。
トレードオフ
対照的だったのは私の姉です。目的を「快適な学校生活」とは別のところに置いていたように思います。
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