無条件の愛と思考停止
「愛」という言葉を最近聞かなくなった気がする。私や私の身の周りの人たちや私が見ている情報に登場しないだけで、世の中には「愛」という言葉があふれているのかもしれないが。
そんな中、めずらしく愛について語り合う機会があった。
愛はコスパではないよね
まず大前提として、愛とは非合理極まりないものだと私は考える。
好きな人への愛や、我が子への愛をもしもコスパで考えてしまったらどうなるだろう。あきらかに元が取れない。コスパで考えるのなら「ない」に越したことはない。
愛には、コスパでは測れない条件を度外視した何かがありそうだ。
サイコパスの中心で愛を叫ぶ
私は、サイコパスである(サイコパシーが高い)。「サイコパスが愛を語るなんて…サイコパスに愛なんてないだろう」と違和感を持たれるかもしれない。
しかし、愛とは何かを語らずして、サイコパスに愛があるかないかの議論はできない。
私には私なりの愛のイメージがあるし、それが実際に起こることもある。つまり、私なりの愛を出して生きている。
では、私が思う愛とは何か。
「放っておけない気持ちと、その行い」である。
サイコパスでないみなさんは、放っておけない気持ちなんて日常的に起こっているかもしれない。
ところが、サイコパスである私は、ほとんどのことを合理的に考えてしまう。「放っておけない」と思う対象が現れることはまずない。基本的には誰もかも放っている。彼らがどうなろうと私の知ったことではない。
そのような無慈悲なマインドがベースにあるにも関わらず、ときどき放っておけない気持ちが湧いてくることがある。その気持ちに突き動かされるように行動まで起こす。非合理でそれなりに無条件の行い。
こんなことは滅多に起きない。だからこそ、私はこれを「愛」と認識する。それが愛であるというより、愛という言葉以外に他に適切な言葉が見当たらないという言い方のほうが近いのかもしれない。
60点の意味的価値
ここまで見て、無条件の行いなんて当たり前じゃないかと思ったかもしれない。確かに、一般常識の範疇なのかもしれない。
ただし、普段2点の人が60点を取るのだ。最高点でみれば凡人レベル。大したことないが、普段とのギャップで考えると大ジャンプしているのだ。折れ線グラフを描いてみれば一目瞭然だ。
それを常識としない人間に起こった気持ちなのだから「愛」と呼んでも十分差し支えないのではないか。
誰かのために無条件に死ねるか
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