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よく考えて依存する

人間は何かに依存しながら生きている。しかし、それにしても依存的過ぎるといえる人たちがいる。

モノ、コトへの依存

依存といえば、特定の誰かへの依存はもちろん、コミュニティへの依存やモノやコトへの依存もある。

私自身かなりの依存体質ではあるが、基本的にはモノやコトに限定している。

たとえば、これまで音楽(コト)に依存してきた。また、酒やカフェイン(モノ)にも依存してきた(いる)。彼らはどんな私も受け入れてくれる。依存先としては完璧だ。完璧ゆえに副作用があるのだが。

まあ、それにしてもモノやコトというのは、自分次第でいかようにもコントロールできる。大人の付き合いがしやすい。

ヒトへの依存

「ヒトへの依存」というのは実に厄介だ。

相手のあるものだから、思うように依存させてもらえなかったり、依存できたとしてもずっと続くとは限らない(多くの場合、続かない)。依存先として安定しないことで、依存者の精神は不安定になる。

依存したい側も不安定なら、依存される側も時に不安定である。

私のようなサイコパスなら、たとえ無慈悲と思われても過度に依存させない。めんどくさい。依存先としてふさわしくないことをあの手この手で伝えるだろう。

しかし、世の中の多くの人は慈悲に溢れている。「私が彼を見捨ててしまったら…彼は」などと他者の人生にまで責任感を発揮し始めるのだ。人として美しく見えないこともない。

彼はどうなってしまうのか。確かに、彼はどうなるんだろうね。しかし、それは彼の課題であり、あなたの課題ではない。若干アドラー心理学的な解釈が必要になってくる。

依存されたからといって、あなたが他者の人生の責任を取らなければならない理由などないのだ。もし、責任を「取りたい」のなら話は変わってくるが。

ヒト依存のなれの果て

依存とは、他のものにたよって存在・成立するものである。

「他のもの」というのが依存先である。たとえば、依存先が「あなた」だとする。すると、依存の意味はこうなる。あなたなくして存在・成立しないということ。

依存先のあなたが「何とか彼に応えなくちゃ」と責任感を発揮したとして、終わりはない。なぜなら、あなたなくして存在・成立しないからだ。つまり、あなたがコミットした分だけ、いや、それ以上に依存してくる。あなたは時間と気力を、人生を依存者にしぼり取られる。

この人生で何一つとしてやりたいことがない人や、依存者にフルコミットしたい場合を除いて、それは不幸というものだ。ヒトに依存することは法律違反ではないから罪に罰せられることはないが、それにしても犯罪に巻き込まれているレベルである。

また、彼を支えるつもりが、結果として彼をさらなる依存体質にしてしまっているとも言える。依存者というのは、依存できる相手をよく見極めている。依存できるからするのであって、依存が存在するのは依存される(させる)人がいるからそうなるとも言える。

ここまで来ると、依存者と依存を許容する側の共同プロジェクトになってくる。もしも、したくてそうしているのでなければ、単なる地獄である。

泥沼になったあとで突然つき離すから、依存者はショックで自殺したりする。依存度がまだ浅いうちに、適切に距離を取るべきなのだ。そうでなければ、人間依存の泥沼プロジェクトで人生の体験価値がボロボロになってしまう。

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