ムダに判断しない
旅行から帰ってきて「また旅行に行きたいなぁ」と考えられるのは、日常と非日常を分けて考えることができているからなんだと思うんですね。
日常をせっせと頑張って、お金を貯めて、時間ができたら、また遊びに行こう。
そういう感じでガス抜きのサイクルを組み立てている人は多いのかもしれません。
私は、どうもこういう感覚が薄い。
「何が日常?何が非日常なの?」と思ってしまいます。それはどういうことなのか。
私自身も、はじめて何かを体験する瞬間やその前後は、非日常を感じているのは確かです。
先日の海外旅行もそうでした。日常で経験したことのないものですから、非日常と言わざるをえない。
でも、非日常は経験すれば慣れるものです。複数回、場合によっては1回経験するだけで日常っぽい感覚が生まれます。
分かりやすいのは、友人関係。とても関係の深い人となら、3年ぶりに会っても久しぶりな感じがしない。会って2秒で、自然になる。そんな感じ、分かりませんか?
何もヒトに限った話ではなく、モノやコトにもそれが当てはまるというのが私の考え方です。
コト(イベント、行ったことのある旅先など)に関しては、季節や社会情勢やそのときいる人の影響など、不確定な要素が絡み合いすぎて、いつだって新しい体験なんじゃないの?と思われるかもしれません。
でも、ヒトだって日々いろんな体験を通じて、変化しているわけだから、本当はいろいろと新しいわけです。2秒後に自然になってしまう関係は、ちょっと例外にさえ見えてきます。
なぜなのか考えてみたところ、お互いに「非日常」のラベルを貼っていないからなんだと思うんですね。
はじめてのことや慣れないことを経験するとき、少なからず身構えてしまいます。それは「非日常」というラベルを貼っているからではないでしょうか。
今、そんなに仲良くないと思う人に3年ぶりに会うとしたら、「うまく話せるかな」とか「楽しくなかったらどうしよう」とか、あれこれ考えてしまうと思うかもしれません。それは、その人に会うことに対して、「非日常」のラベルを貼っているからなんですね。
上記の例はさておき、人は不必要に「非日常」のラベルを貼り過ぎているように思います。
また、「非日常」のラベルを貼らないだけでは不十分で、「日常」のラベルも貼らないことが大切です。
「日常」と思い込んでしまうことで、それはそれで柔軟性が低く、相手からはじかれてしまう可能性があります。
ようは、自分と対象とのセッションのようなものなんです。アドリブ前提なので、「自分は非日常です」とか「日常です」とか態度がガチガチに決まってしまっていると、双方にとって面白いセッションになりません。
旅行から帰ってきて「また旅行に行きたいなぁ」と考えられるのは、日常と非日常を分けて考えていると冒頭で言いました。
態度をガチガチに決定しているこのマインドが、「私は日々せっせと働いて、年に1回、数日間だけは海外の行きたい場所に行ける存在」と決めつけてしまっています。
自分自身を現状の生活にしばりつけている。しばりつけられているのではありません。
私は、先日はじめてニューヨークに行って、感銘を受けました。
「また旅行に行きたいなぁ」とは思いませんでした。代わりに、「どうすれば一年の50%〜75%を海外で過ごせるだろうか?」という問いが頭を駆け巡っています。
自ずと生活を大きく変えざるをえないでしょう。いつ?それはまだ分かりません。
ただ、日常をせっせと頑張って、年に1回、数日間だけは海外の行きたい場所に行ける存在とは決めつけていないのです。
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