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音楽とエッセイと私

私は、このnoteを通じて「表現活動」を行なっている。表現活動というほど緊張感がない日もあるにはあるが、基本的にここは私の表現欲求を満たしてくれる場所になっている。

かつて、それは音楽だった。作詞作曲という形で自分の考えていることや世界観を表現した。再現可能な「曲」をスタジオやライブで演奏し、エネルギーを爆発させる。音楽活動は、私の表現の原点である。

コスパ思考

思うに、音楽活動は「コスパ」が悪い。機材を揃えたり、技術を要したり、はたまた時間がかかる(等倍速でしか再生できない)。

そもそも、表現活動に対して「コスパ」などと言っていることが、表現に対する冒涜である。そんなことは重々承知だ。しかし、本気で音楽に向き合おうと思ったら、とてもじゃないが仕事が手につかない。

いや、音楽だって上手にやる方法はあるだろう。しかし、上手にやろうと思った途端、それは結局効率化の世界、コスパ思考に毒されるのだ。

コスパ思考に陥らず、結果としてコスパがよい。そういう表現活動としてエッセイがうまくハマっている。楽器も必要なければ、音が出せる環境も必要ない。文章にも、コードとメロディとリズムは必要とはいえ、音楽ほど複雑に折り重なってはいない。実に、シンプルだ。スマホ1つあれば、散歩途中の公園のベンチでも書き上げることができる。本気を出して、でも、結果としてコスパがよい。

私の場合、音楽で1曲仕上げようと思えば1ヶ月かかるが、エッセイの場合1時間でできる(もちろん、文字数や内容にはよるところは大きいが)。

疲れた人間の言語化

今の私は、エッセイという表現活動に満足している。よほどその気にならないと音楽活動を再開する気にはなれそうにない。

ところが、唯一エッセイで困っていることがある。

精神的に落ちているときに、それを言語化する価値が見出せないことだ。

たとえば、ここ数日の私は、とても疲れている。体力的に無理をしたわけではない。ただ、精神的に疲れている。気力が湧いてこない。結果、体力的にも怠い。やる気が出ない。

こうして最近の私の気分を文字にすると、ただどうしようもない。(単なる実力不足といえばそれまでだが)疲れた気分を言語で美しく処理するのは本当に難しい。いや、文章であってももっと物語のように見せることはできるだろうが、そこまでしてこの疲労を美化する気にはなれない。

一方、音楽であれば、この「疲れた」という気分を相当に抽象化した形で表現できる。言葉にすれば、疲れたというだけのどうしようもないものが、変に飾らなくとも美しい音楽としてアウトプットされる可能性がある。まあ、ないものねだりをしてもしょうがないのだが…。

そんなことを考えていたら、数日ほど更新が滞ってしまった。


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