2つのカミングアウト
「人には、収まる箱がある。」
たとえば、私の場合「サイコパス」という箱を見つけ、きれいに収まってしまったのでした。
一度、サイコパスと書かれた箱から出て、あらためて観察してみると、いろんなタイプのサイコパスが箱に詰められていることが分かりました。
一般的に、シリアルキラーのイメージが強いサイコパスですが、それは例外です。野球少年みんながプロ野球選手になれないのと似ているかもしれません。ドラフトに引っかかるのは、ガチの人だけ。
野球をやっていたからといって、みんなが150km/hのボールが投げられるわけではないように、サイコパスといえども多様性があって、発現の仕方は人それぞれです。
共通するのは、共感能力と良心の呵責の欠如。これは犯罪者ではないマイルド・サイコパスとかグッドサイコパスなどと呼ばれる人にも当てはまる特徴です。
ただ、サイコパスの多様性を、みなさんが当たり前に理解してくれるとは思っていません。私自身、自分がサイコパスかもしれないと気づくまで、シリアルキラーのイメージしかありませんでしたから。
自分がサイコパスと分かった途端、「みんな知ってて当たり前」というのはおこがましいと思うのです。
サイコパスについて認識の解像度を高めていただけるよう、私なりに啓蒙活動を行おうと思っています(YouTubeチャンネルでは、主にサイコパスについて語っていきます)。
何はともあれ、サイコパスという箱に収まることで、自己理解が進みました。
公にサイコパスをカミングアウトし、学びを深め、啓蒙活動に取り組もうとしているのは、「知ること」で自身の心が軽くなった経験に基づいています。自分の特性を隠して生きるのは、つらい。というか、生きづらいよな、と。
このような姿勢は、見方によっては勇気があるように見えるかもしれません。
「誤解されて、犯罪者扱いされるかもしれないという不安はないの?」とよく言われます。
私はサイコパスなので、そうした恐怖や不安を感じにくいようです。
「誤解で犯罪者扱いしてくるような人はスルーするよ。21世紀にもなって思い込みで差別してくる人間なんて関わらないに越したことはないからね。むしろ、よいスクリーニングになる。」という極めてドライなことを考えてしまいます。サイコパスですね。
これは、勇気ではなく、ただの障害なんです。
先日、友人が「ずっと言えなかったけど…実は、アスペルガーなんだよね」とカミングアウトしてくれました。一般的に、アスペルガー症候群は不安感が強いと言われているそうです。
どんな気持ちでカミングアウトし、カミングアウトすることでどんな気持ちになったのか。サイコパスの私には共感することができません。
ただ、不安を抱えながらも自己開示してくれたということ。
これについては、勇気と呼んでも差し支えないなと思いました。
カミングアウトそのものには意味はなくて、文脈が合わさって初めて意味が生まれるんですよね。
「すごいね」って言うのも違うし、「これぐらい」って言うのもまた違うと思うんです。
追伸
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