認識の檻
ゆるやかなコミュニティであったり、目的が明確な組織であったり、私たちはその中の一員であると感じるとき、何らかの共通の認識の檻の中にいる。
認識の檻は言語化されているときもあるし、すべての文脈が非言語の空気となって現れるときもある。
いずれにせよ、集団の一員であると思えるとき、私たちは何らかの共通の認識の檻の中にいるのである。
共通の認識の檻の中にいなければ、私たちは共通の認識が持てない。つまり、コミュニケーションが成り立たない。
「あれ、この人とコミュニケーションが成り立たないぞ」と思うとき、確かにお互いのコミュニケーション能力の問題もあるが、認識の檻を共有できていないこともまた大きな原因の1つである。これは疑いようもない事実だろう。
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