「書く」と「話す」の射程範囲
noteで書き、Podcastで話す。表現活動として、できる限りそれを毎日行なっている。
表現方法こそ違えど、そこで言っていることは同じだ。同じつもりではあるが、音声か文章かというツールの違いがもたらす意味は大きい。
それは、単に文章を読むほうが好き、音声を聞くほうが気楽というような現代人の好き嫌いを対象にした話ではない。どちらかといえば、時間軸を超えた対象を視野に入れている。
たとえば、もし鎌倉時代の人が書いた文章と話した音声が残っているとする。どちらを利用するかというと、私なら前者の文章である。吉田兼好が話している音声よりは、徒然草を読みたい。
音声というのは、同じ時代の人間からすればすんなり耳に入ってくるものだが、時代が、カルチャーが大きくズレてくると、もはや何を言っているのか分からないのではないだろうか。
音声のほうが情報量は多いが、その情報にはカルチャーを共有していなければデコーディングできない情報も多分に含まれる。一方で、文章は言語ごとよほど吹き飛んでいない限りは概ねデコーディングできる。現代語訳など他者による変換もきく。音声ならそうはいかない。本人の肉声が台無しである。
つまり、カルチャーを共有できている現代人には音声、カルチャーを共有できていない未来人には文章のほうが伝わるのではないかというのが私の考えである。それぞれ得意とする射程範囲が異なる。そういう事情から、自身の同じ気づきをわざわざ書くと話すに分けて発信しているのだ。
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