あまりにも未熟な
「言葉を使用する」ということにおいて、私たち人間はあまりにも未熟である。
言葉によって「意味」を伝達したいのか「印象」を伝達したいのか。ほとんどの場合において意味も印象も混じり合っていたり、そうでなかったりする。そもそも、形容詞のように印象そのものが言葉として存在するものまである。とはいえ、印象成分を除去して意味だけを伝えたいときだってある。
受け手が言葉を受け取り解釈するまでの一切を考えずに、自分にとっての意味ないし印象で言語化して相手に投げつけているだけかもしれない。反対に、一生懸命受け手のことを想像し、慎重に選んだ末の言葉かもしれない。
そのどちらであるにせよ、私たちの言葉のやりとりはいいかげんというものである。
赤い車
次の文章を読んでほしい。
赤い車が、私の目の前を通った。
これでは文字通り、赤い車が私の目の前を通ったというだけの話である。
果たして、どんなロケーションで、どんな車種の車が、どのように通ったのか。あなたはそのとき、どんなシチュエーションにあったのか。
渋滞気味の道路を赤いマーチが時速20キロ未満のスピードで通ったのかな、とか。あなたには、どんな映像が浮かんだだろうか。
赤い車が、私の目の前を颯爽と走り抜けた。
今度は、「颯爽と」という言葉が追加された。「颯爽」とは、辞書的にいうと「きりっとしていて気持ちのよいさま」だそうだ。
また、「通った」が「走り抜けた」に変わった。意味自体にさほど変化はないのだろうが、印象はガラリと変わる。
どのように赤い車が通ったかは分かった(ような気がする)。少なくとも時速20キロ未満ではなさそうだ。
さて、颯爽と走り抜けた赤い車の車種は?
ポルシェ?フェラーリ?ミニクーパー?ワーゲン?
赤い車が、サイレンを鳴らしながら私の目の前を颯爽と走り抜けた。
サイレン鳴らし出したら、さすがに消防車やないかい!
いや、そうとは限らない。
赤い乗用車が、車の屋根にランプをつけ、サイレンを鳴らしながら私の目の前を颯爽と走り抜けた。
赤い乗用車の覆面パトカーだったというオチである。
ふざけた例のように思えるかもしれない。しかし、実際の日常会話を思い出してほしい。
「赤い乗用車が車の屋根にランプをつけて、サイレンを鳴らしながら、私の目の前を颯爽と走り抜けたんだよね」と「赤い車が私の目の前を通ったんだよね」では、どちらがあなたの日常会話に近いだろうか?
圧倒的に後者ではないだろうか(中には、前者の方もいるかもしれないが、情報量が多すぎて聞き役はきっと疲れているに違いない)。
上の例はかわいいものだ。私たちは、センシティブな話題であるほど、意味さえも置き去りにして印象だけでとらえがちである。たとえ話し手にそんなつもりはなくとも、受け手が勝手な印象で判断してしまうことがある。昨今の炎上騒ぎのほとんどがそれではないかと思うほどに。
孤独
なるべく丁寧に言語化して意味の捉え違いが起こらないように語彙を駆使したい。たとえ「私はきちんと言語化しています。印象と意味を分け、言葉の意味に忠実です。」という人がいたとしても、話はそう簡単ではない。
たとえば、「孤独」について考えてみよう。
印象でとらえると、「ぼっちでさびしい感じがする」とか「何か自立している感じがする」とか「暗い人なのかな」とか、孤独というたった一語をとっても個人的な印象の嵐である。
何とかお互いの共通のよりどころがほしい。「印象」ではなく「意味」に立ち戻ろうと、2つの辞書を引いてみる。結果は以下の通りだ。
広辞苑の「孤独」
①みなし子と老いて子なき者。 ②仲間のないこと。ひとりぼっち。
大辞林の「孤独」
①頼りになる人や心の通じあう人がなく、ひとりぼっちで、さびしいこと(さま)。 ②(「孤」は親のない子、「独」は年老いて子のない人)寄るべなき身。
双方、「みなし子と老いて子なき者」の意味については共通だが、問題はもう一方だ。それぞれニュアンスが異なる。
広辞苑では、ひとりぼっちであるという状態にフォーカスしているが、大辞林は人間関係の様子に踏み込み、さびしいという印象までも孤独の意味に込めている。つまり、広辞苑は「ひとりぼっち」までだが、大辞林ではひとりぼっちに加えて「さびしいさま」まで意味に含まれているのだ。
そうすると、以下のような会話がも起こる。
「すり減ってしまうようなよく分からない人間関係に時間を費やしていないでさ、もっと自分にとって有意義な時間を使うためにも孤独(ひとりぼっち)になろう!」
「え、でも、それってさびしいですよね」
話し手としては、「こっちは、ひとりという状態にフォーカスしとるんじゃ!さびしいというのは、ただのお前の印象の話だろうが!」と言いたくもなるかもしれないが、大辞林の愛読者に言わせれば「印象じゃないし!孤独って、さびしいっていう意味でしょ!」ということになる。
いくら意味に忠実であろうとしたところで、「それ、出典は?」という話になるのだ。
分かり合えない
私たちは、そのような状態で言葉のキャッチボールをしているのだ。むしろ人々の間に争いごとが起こらないほうがおかしい。
危ないから、「話し合おう」などと気安く言わない方がよいとさえ思う。
あなたはAという意味のことを語ったのに、相手はA’ととらえ、その上でBという意味の意見を述べたが、あなたはそれをB’ととらえ、その上でCという意味の意見を述べたが、その意見をC’と相手はとらえる。もう何の話をしているのやら。お互いすれ違い続けている。どうしようもない。
「いや、話し合って納得できることだってあるじゃないですか」と言いたくなるかもしれないが、多くの場合、納得するまで話し合ったというその行為、プロセス、それらの“印象”に納得しているだけだ。
純粋に意味と印象を何%ぐらい正確に相手と共有できているというのか。知るのが怖いぐらいだ。
「つまり、三角形でよろしいですね」
「はい、よろしくお願いします。」
(翌日)
「ちょっといいかな。二等辺三角形とは聞いてないよ。こっちは正三角形のつもりだったんだから。」
「そう言われましても…。二等辺三角形は、三角形という概念の中に含まれる下位概念ですから、二等辺三角形も三角形なんですよ。」
「いいや、認めん。二等辺三角形は邪道だ。三角形といえば正三角形だろうが。」
「それは、さすがにあなたの個人的な考えじゃないですか。論理的に無理がありますよ。」
「さっきから聞いてりゃ、概念だの論理だの難しい言葉を使って、私を丸め込もうとしているのが気に食わん。」
「いや、丸め込むとかそんなつもりはなくて。どこが分からないですか?」
「全部だよ!」
ここまでひどくはないにせよ、似たようなことを私たち人間は延々とくり返している。
ただでさえ言葉を上手に使いこなせない人類は、それにも関わらず今日も新しい言葉を生産し続けているのだ。
今、私の目の前を赤い車が通った。
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