「べき」の呪い
こうするべき、そうあるべき。多かれ少なかれ誰もが「べき」を持っているのではないでしょうか。自分の中に「べき」を持つ分には構わない。むしろ、多少は「べき」を持っていないと生活がぐちゃぐちゃになります。
たとえば、「朝は遅くとも8時までに起きるべき」という「べき」を持っているからこそ時間までに起きれるのであって、私のように起きる時間に「べき」を持っていない人間は、平気で正午近くまで眠っている。
ありたい自分、ありたい生活をほんの少しでも胸に抱いているのなら、「べき」は発生して当然とも言えるでしょう。
外から飛んでくる「べき」
ところが、「べき」を他者に向けた途端、話は変わってきます。
「早起きするべきだ!」
もしこのように遅起きの人が早起きの人から言われたとして、「そうですよね」と思うか、「お前、誰やねん」と思うか。結局は言われた側の「べき」に答えがあるのだと思います。しかし、言われた側の「べき」はいろいろと複雑です。
まず、言われた側の遅起きの人が、ほんとうはもっと早起きすべきだと思っている場合には、すんなり「そうですよね」となる。しかし、そうでなくとも「そうですよね」となる場合はあります。相手を崇拝している場合、「この人の言うことなら取り入れるべき」という「べき」を持っていることがある。他にも、「科学的に正しいことは受け入れるべき」という「べき」を持っているかもしれません。
このように「べき」が何層にもわたって存在するため、言われた側の「べき」に答えがあると言いつつも、なぜその「べき」をインストールするに至ったかは説明がつかないことが多いのです。
呪い
ほんとうに相手にとって、早起きするのが正解だったかは分からないまま、結果として早起きがインストールされる。早起きならばまだしも、これが「結婚」「就職」「子育て」などと社会との密接度が高くなってくると、一気に呪いになりえます。
「30歳までに結婚するべき」などと言っている人がゴロゴロいます。「結婚とは何か?」「30歳とは何なのか?」自分なりによく考えた上でほんとうに望んでいる人はいいと思いますが、さほど深く考えてもいない、大した意見もないくせに、強迫観念的に「30歳までに結婚するべき」ということを言っているのでは完全に呪われています。理由を尋ねても、だいたいテンプレートの暗唱です。呪いによって、すっかりたましいを抜かれてしまったのでしょう。
早起きか結婚かでは大きく異なるとはいえ、他者に「べき」を押し付けることがいかに危険なことかお分かりいただけたのではないでしょうか。よかれと思って言ったことが、相手を呪いにかけてしまう危険性を孕んでいる。
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