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感情の障害を自覚するとき

承認欲求について対話しました。

私自身は、安全の欲求の中にどっぷり浸かっている人間です。所属や承認の欲求フェーズにいないんだと勝手に納得していたのです。承認を求める気持ちは薄いので、なかなか気楽なものだなと思っています。精神衛生上、そんなに悪くない。

みんなも安全の欲求がそもそも満たされていないことを「自覚」すれば、所属の欲求や承認欲求に悩まされなくて済むのではないか。そんなふうに考えていました。

ところが、承認欲求について対話する中で「そうではないらしい」ということが分かりました。どうも私だけ感覚がズレている感じを受けたのです。

手段(道具)としての所属、承認

「所属したい欲求と、所属しているか・していないかという状態は分けて考えるべきだ。承認されたい欲求と、承認されているか・されていないかという状態は分けて考えるべきだ。」

私は、そのように前置きした上で、自分の感覚を述べました。

私は安全の欲求を満たすために、所属や承認を手段(道具)としては必要としているけれど、欲求としての承認や所属は薄いです。みなさんはどうでしょう?」と。

異端であることの不安や恐怖

それに対し、対話のお相手が言うには「所属や承認の欲求は自然と湧いてくる」とのことでした。群れとしてマジョリティ側にいない、異端であることは生命に危険を及ぼす。その不安や恐怖が根底にあるのかもしれないということでした。

理屈は私にも分かります。異端であることはとても危険です。世の中から、"理不尽な"袋叩きにあうことも容易に想像できます。

だからこそ、安全のための手段(道具)として、所属や承認が必要と私は考えるわけです。ところが、そのときに、欲求として「承認されたい」という気持ちが湧いてくるわけではありません。

何かズレている。

砂糖とガソリン

対話の場では、さらに「承認欲求は砂糖である」という表現も出てきました。血糖値が足りていないから糖を取るという機能的な理由ではなく、「甘いものを食べたい」という感情の動きを表現しているのでしょう。

私の感覚では、所属も承認もどちらかというとガソリンに近い。ガソリンがなくなったら困るから、ガソリンを給油するでしょう。それはガソリンが手段として必要なだけで、ガソリンを感情として欲求するわけではありません。そういう感じなのです。

感情のギャップ

こういう他者との感情のギャップに、自分の感情の障害をあらためて自覚させられます。…サイコパス 。

決して私に感情がないわけではないのですが、感情の動き方が多くの人とはずいぶん異なる、それこそ異端です。

感覚がズレすぎているからこそ、日常生活では人一倍気をつけなければなりません。丁寧に感情の動きを尋ねることができるこのような対話の場は私にはとても有難いなと思います。

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