役に立とうとして役に立つのと、気づいたら役に立っているのとでは精神的に雲泥の差がある
誰かの役に立とうとして役に立つのと、気づいたら誰かの役に立っているのとでは、精神的に雲泥の差があります。どっちがどっちということもない。好みが分かれるところです。
誰かの役に立ちたい
「誰かの役に立ちたい」と公言している人をよく見かけます。そうやって誰かの役に立つことを喜びとして、誰かの役に立とうとして、一生懸命役に立つための行動をしている人もいるのでしょう。
それはそれで一つの価値観として肯定したいと思っています。そういう前提で、この先を読み進めてください。私と180°感覚が違う人は、あまり間に受けず、ぜひ「そういう人もいるんだな」ぐらいにとらえていただけると幸いです。
役に立とうとして役に立つことに喜びを感じない
私は、誰かの役に立とうとして役に立つことにさほど喜びを感じません。
もう少しはっきり言うと、別に何も嬉しくない。
小さなところでいえば、「今この人はこれをやっているから、先回りしてあれを済ませておこう」というような気遣いは日常的に行なっています。意識して、できる限りやっている。まさに、役に立とうとして役に立っているわけですが、別にどうということはない。
ある物事について、役に立つという到達点を設定し、行動し、実際に到達する。
ただ、それだけのことですから、驚くことはありません。「コンビニで昼ごはんを買う」という到達点を設定し、行動し、実際にコンビニで昼ごはんを買う。それが実現したことがそんなに嬉しいでしょうか。予想通りすぎて、私は特に嬉しくありません。アクションのサイズが小さければ小さいほど、予測可能ですから、予想通りの結果が訪れたところで別に嬉しくない。
アルマゲドン
では、アクションのサイズを大きくしてみれば感覚は変わるのでしょうか。
たとえば、「地球滅亡を回避するため小惑星を爆破する」というプロジェクトは役に立とうとして役に立っているわけですが、まったくその役を買って出ようとも思えないし、仮にその気になってプロジェクトに参加したとして(しかも、無事成功し、地球に帰還したとして)何の満足感も得られる気がしません。目の前の大きな問題は解決したけれど、「で?」という感じなのです。
どうやら、アクションのサイズ感の問題でもなさそうです。
役に立っても嬉しくない3つの理由
私にとって、役に立とうとして役に立つことが特に嬉しくない理由は3つあります。
1つ目は、先にも書いたように、到達点とその計画を立てた時点であとは予想通りうまくいったか失敗したかでしかありません。失敗はとても悔しいですが、成功は予想通りなので特に嬉しくない(ちょっと変かもしれませんが、私にはそういうところがあります)。
2つ目は、他者が喜んでいる理由が「自分の働き」である必要がないことです。他者が嬉しそうにしている、ご機嫌であることは大変素晴らしいことだと思います。そういうポジティブな空気は(ネガティブな空気も)伝播します。ただ、それを演出したのが誰であるかはどうでもいい。私以外の理由で何かよいことがあったおかげでご機嫌だったとしても、ご機嫌であることに変わりありませんから。
3つ目は、点のプロジェクトにさほど価値を見出せないことです。たとえば、小惑星を爆破するというようなプロジェクトは点ですね。「小惑星を爆破するのはいいけど、もし別の小惑星が飛んできたらまた爆破しに行くんですか」という感じで、目の前の問題に対処することはキリがない気がしてしまって、まったくモチベーションが上がりません。
逆に、線のプロジェクトとはどのようなものかというと、「町に水道を引いてくる」というようなものですね。未来に渡って、長期的にそのプロジェクトの恩恵にあずかることができる。大変意義を感じます。ただ、このような長期的なプロジェクトは、「役に立ちたいからやる」という使命感よりも、「やりたいからやる」というような遊び感覚のほうが満足度が高い気がします。少なくとも私はそういう感覚です。
以上、3つの理由を踏まえると、役に立とうとして役に立つことで精神的な喜びを得ることは難しいなと思います。
木になる気分
一方で、「気づいたら誰かの役に立っている」というのは、格別の喜びがあります。
自分が、特に誰かの役に立つことを意識せず、ただ生きて何かをしているだけで、たまたま誰かの役に立っているとしたら、なんて素晴らしいことでしょう。呼吸をしているだけで酸素を生産する、まるで木になったような気分です。
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