気づき中毒:気づきは自分の感覚からしか得られない体験
「人体実験」と聞くと、おどろおどろしい印象を受けるかもしれません。歴史上、目を覆いたくなるような残忍な実験が行なわれたりした、という話があったりするせいでしょうか。
けれど、「好奇心を持って生きる」ということは、自分分野についてはほぼ人体実験のようなものだと思うんですよね。
自分という存在を実験台にして、あれやこれや試してみることなんだと思います。
仮説を立て、実行し、検証するというような生き方が、どこまで自覚的に行われているかは分かりません。
しかし、人は少なからずこのプロセスを体験していると思います。そうでなければ、今頃とっくに死んでしまっているはずですから。
自分を使った人体実験は、決して奇抜なことをやるわけではありません。安心してください。でも、「普通」ではないかもしれない。
私は、先週末から今週の頭にかけて、食あたりになりました。
原因を探るためにも、重症化を避けるためにも、すぐに病院に行くことが大切です。異論はありません。
ただ、人体実験の精神においては、すぐに病院に行ってしまっていては話になりません。
症状と向き合う。原因を考える。薬以外の方法をあえて模索する。やることはたくさんあります。
そのときの自分をよく理解するよう努めます。
「体調不良のときにそこまでしなくてもいいのではないか?」と思われるかもしれませんが、私にとっては新しい気づきが得られることが、人生の快感なのです。
ともすれば、体調不良さえ機会になりえます。好きにさせてください。
いわば、「未知のものが自分にとっての既知になるときに生まれる気づき中毒」なのです。シンプルに「気づき中毒」でいいかなぁ。
実際、今回の体調不良の中、自分を観察する中で急に仏教的な世界観が理解できるようになりました。「無我」なんて、今までピンと来ませんでしたが、ストンと腹落ちしたのです。
だからなんだって話なんですが、気づき中毒の「気持ちよかったよ」という報告でした。
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