「なぜ」を嫌がる大人たち
「なぜ」を重ねていくうちに、必然的に答えに詰まる。言葉では説明不可能な領域に突入する。胸につかえる何かがあったり、もしくは何もないことに気づいたり。
私の知る限りでは、大人は子どもに比べて「なぜ」を嫌がる。胸につかえる何かを感じたくないし、何もないということに気づきたくないのだろう。
しかし、そんなものは臭い物に蓋をしているだけだ。「本当は食道がんであるが無自覚でありたい」とか「服を着ていないが着ていると思いたい」と言っているようなものである。
「なぜ就職するのですか?」
「なぜ自分に自信が持てないのですか?」
「なぜ起業したいのですか?」
「なぜあのとき怒ったのですか?」
「なぜ時間がないのですか?」
「なぜあの人に会いたくないのですか?」
「なぜお金がないのですか?」
試しにいずれかの質問について、「なぜ」を5回〜10回掘り下げてみてほしい。胸に何かがつかえるか、何もないということに気づける。もしくは、スラスラ答えることはできているが、最初の問題からズレにズレていることに気づけるだろう。
「こんなことを考えて何になるんだ」と言いたくなる気持ちは分からなくはないけれど、そんな人には「こんなことも考えずに一体何になるつもりなんだ」と返したい。
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