「見るだけ」は見るだけじゃない上に見れてさえいない
施設見学、会社見学、授業見学など、世の中には「見学」と呼ばれる学びがあります。
一度見ることで現場を知ったような気になる学習のことを言うのですが、果たして見学にどれだけの意味があるのか、私は疑問を持っています。
たとえば、私が20名の前で30分ほど講義をするとしましょう。次の①〜⑤は、同じ内容の講義を行う(行おうとする)ものとします。
①私+受講者
おそらくこれまでの時代のもっともシンプルな講義のシチュエーションですね。私が講義し、受講者が受講する。最近はオンライン講義なども流行っていますが、ここではオフラインの対面講義ということにしておきましょう。
②私+受講者+見学者
「ちょっと見学させてもらえませんか?後ろのほうで見ているだけなので」ということで、後ろのほうに見学者がいる場合、果たして①私+受講者とまったく同じ質の講義が行われるでしょうか。
心の状態の変化による微妙な差異があるのではないでしょうか。講師として経験を積み、見学者に見られることに慣れていたとしても、差異を小さくすることはできてもゼロにすることは難しい。
見学者は「見ているだけ」のつもりでも、対象に干渉してしまっているのです。見学者の自分がいなかった場合のリアルな講義を見れていないことになります。
③私+受講者+カメラ
確かに、誰かに見られているとやりづらい。ということで、据え置きのビデオカメラを用意したとしましょうか。
今度は、②私+受講者+見学者のときとはまた違った差異が生まれてしまう。記録として残ってしまうという、きっとビデオカメラならではの干渉が生じてしまいます。
④私+受講者+隠しカメラ
隠しカメラで撮影した場合、私が隠しカメラの存在に気付いていないとすれば、事実上①私+受講者の状態と変わりません。はじめてリアルを観察することができると言えます。
⑤私
受講者ゼロの環境で、私1人で講義をしているとしましょう。①私+受講者のときと同じテンションでやれるでしょうか。
東進ハイスクールの講師でもない限りは受講生がいるときとの差異があるのではないかと思います。
「見ているだけ」は見ているだけじゃない
結局、見ている側は「黙って見ているだけ」のつもりでも見ているだけではないということです。何らかの形で対象に干渉してしまっています。
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