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死なないという目的

生きているのが善であると、当たり前に思い込んでいる。そのような暗黙の了解に、思考が停止しがちである。それに拍車をかけて、日々を忙しく過ごしているうちに、つい「死なない」ということが目的になってしまう。

死なないという目的

少し考えれば分かることだが、死なないことは目的ではない。死なないことが目的化するとき、思慮浅さが露呈する。どうして死にたくないのかを考えれば、それはすぐに分かる(生きる目的がぽろっと出てくれば儲けものなのだが…)。

生きる目的がないのに死なないのは、きっと死にたくないからで、なぜ死にたくないかと言えば、漠然と死ぬのがこわいからだろう。そんな調子で、死の恐怖から逃げるように死なないことが目的化してしまう。

そんな生に、果たして何の意味があるのか。そんなに地球温暖化が心配なら、さっさと死んだほうが地球に優しいと思う。

死なないという手段

何か生きる目的があれば、死なないことは手段になる。本来、死なないことは手段でしかないはずなのだ。

ところで、私たちは何のために生きているのか。人類にとっての真理のようなものはきっと見当たらないだろう。ところが、自分にとっての真理、もしくはそれに類するものというのは誰もが持ちうる可能性がある。それは信念とか美学とか哲学とか、言い方は何でも構わない。

自分にとっての真理のような何かを生きる目的に据えてみることはできる。そのとき初めて、(意識的に)生きてみようと思えるのである。死なないために生きるのではなく、生きるために死なない。死なないということがきちんと手段に収まる。

生きるに値するだけの目的を持っているか

ふと自分を振り返ってみたときに、果たして、死なないことが目的になってはいないだろうか。生きていて意味を、目的を何か見出せているだろうか。今は社会的なインパクトであるとか、地位や名声の話はどうでもよい。あなたにとって、生きるに値するだけの目的を持った生なのか。そういうことをここでは問うている。

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