なぜ私は対話を必要とするのか
私は、対話を必要とする。
むしろ、対話以外で向かい合って話すことを必要としない。送信ボタンを押せば情報は、受信者の元へと飛んで行く。情報伝達であれば、何も向かい合う必要はない時代だ。
「寂しいから」「つながりたいから」とか、そう考える方は多いのかもしれないけれど、それだったら言葉は必要ないかもしれない。ハグとか添い寝とか、そういうフィジカルなコミュニケーションのほうが、よっぽどつながっている感じは満たされるんじゃないか。そこまで極端ではないせよ、対話というより会話で十分なんだろう。
私は、対話と会話を明確に分ける。私は会話が苦手だ。心の底から、どうでもよいと思っている(サイコパス)。
私にとって、会話とは天気の話、近況報告、身近な人や生活情報など。対話とは、話題問わず共通の話題で考え理解を深めようとすることである。
対話は、有意義だ。私が対話を必要するのは、考えることに適しているからである。
「考える」を使い分ける
考えるといっても、いろいろある。
机に向かって考えること、散歩をしながら考えること、本を読みながら考えること、対話しながら考えること。どれが一番ということもなく、それらはそれぞれ違ったよさがある。
私は、4つの「考える」を使い分けている。
独りで静的に考える
独りで静的に考える例は、机に向かって考えることである。一般的に「考える」というときに真っ先に思い浮かぶのはこれではないだろうか。
私は設計図を考えるとき、独りで静的に考える。案件はなんでもかまわない。新規ビジネスの設計図かもしれないし、企画書のラフかもしれないし、1年間の計画の計画を立てているかもしれない。
じっくり論理的に、何かのアウトプットに向けて考えるときに使う。
独りで動的に考える
独りで静的に考える例は、私の場合、散歩やサウナである。
自然と思考が活性化し、アイデアがポンポン浮かんでくる。サウナの場合、思い浮かんだアイデアがサウナから出た頃には忘れてしまっていることもよくある。
論理的に考えるというよりは、直感を活かした思考のプロセスである。
他者と静的に考える
独りで静的に考える例は、読書である。
著者が、すでに論理的に練り上げた動かぬ主張に触れながら、じっくり考えることができる。その文章から直感的に何かを感じることもあれば、論理的に考えさせられることもある。
読み返すことができるので、思考を反復し増強させやすい方法である。
他者と動的に考える
他者と動的に考える例は、対話である。
何かの話題を共有し、考え理解しようとする。読書ほどのまとまった思考にはたどり着きづらいが、直感的な発見は得られやすい。また、その発見に対し対話のラリーを続けることで、さらなる発見が生まれることもある。時間と体力の許す限り、直感と論理の連鎖が起こるのが対話の面白いところだ。
私はなぜ対話するのか
私は、考えることが好きだ。
上に見た4つで、他者とのリアルタイムのコミュニケーションが発生しているのは「対話」だけである。考えるために、私は他者との対話を必要としている。それだけのことなのだ。
私は、人とコミュニケーションを取りたがらないやつだと思われている向きがあるが、決してそんなことはない。対話をするか、対話しないか。それだけのことなのだ。
私は、対話をしたがらない人とは仕事以外では一切会わないようにしている。反対に、対話したい人とは機会があればぜひ対話したいと思っている。
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