習慣によってつくられるマインドの話
セミナー案内のDMが届いていた。ビジネスセミナーは、どれも「すぐに使える」ものばかり。いわゆるスキルを全面的に打ち出している。
「A」というスキルをお金で買う。それに違和感をおぼえることがある。習得しようとするスキルが、機械的なもの、温度のあるコミュニケーションを介さないものであれば納得できる。
たとえば、簿記を学ぶとき、人間の心情を慮る必要はない。対「人」ではなく、対「システム」である。システムをよく理解し、システムに則って実行できればよい。
ところが、対「人」のスキルは簡単にはいかない。人とのコミュニケーションはシステムでは語れない。その時々について発生する有機的な営みであるから、「AのときはB」というように単純化できない。
簿記なら、制度の改定の度に認識をあらためればよいが、ヒューマンスキルは瞬間ごとに認識をあらため続けなければならない。
マインドという土台
世の中にはさまざまなヒューマンスキルが出回っているが、スキルが先走りして相手(人)が置き去りになっているパターンが散見される。3流のコーチやファシリテーターなんかはその最たるもので、本人がただスキルに酔っ払っているだけのように見える。
もちろん、人間同士をつなぐ有機的な営みを成立させるために、スキルは欠かせないだろう。しかし、その根底にあるマインドのほうがまず重要である。
マインドの土台の上にスキルがある。
これはコーチングだろうとファシリテーションだろうと(その他のあらゆるヒューマンスキルであろうと)当たり前に聞かされる話である。たいてい、ピラミッドみたいな図が書かれ、底辺に「マインド」とか「心構え」と書かれていたりする。「心構えなくしてスキルは意味なし」というように、マインドの重要性が序盤に必ずといってよいほど説かれている。
しかしながら、すぐに使うことに夢中になっている連中は、最も大切なマインドをすっ飛ばしてスキルに走る。
気持ちは分からないでもないが、「すぐに使える」に飛びつくあまり、表面的には模範どおりに挙動しているのだけれど、まったく結果が出ないということが起こる。本末転倒。
対人的なスキルは、マインドありきなのである。
習慣とマインド
先日、ビーガン(肉や卵やチーズ、魚などを含む動物由来のものを一切口にしない人)について議論した。
主な参加者は、食にまったく関心のない私。菜食に強い関心のある人。パートナーがビーガンの人。ビーガンの思想に懐疑的な人。元ビーガンの人、など。
印象に残っているエピソードがある。「元々、アトピー対策でビーガン的な食生活を始めただけなのに、続けていくうちに、一切の動物を搾取・苦しめることなく生きるというビーガンの思想に至った」という話。それが原因となって、パートナーと離別してしまったらしい。なかなか興味深い。
この話を聞いて以来、マインドはそれ自体を意識的に考えることではなく、日頃の習慣によってつくられるのではないか。私は、そう考えるようになった。
「自分」みたいなものを見出すとき
昨日の自分と今日の自分が同一であることを理解するためには、昨日と今日の自分が同一である(と感じられる)要素を探さざるをえないのではないだろうか。
朝起きて、鏡の前に立ったら身長が40センチ伸び、瞳の色がブラックからグリーンに変わっていたら「おはよう、私!」とは多分思えないだろう。実際には、朝起きて鏡の前に立つときに昨日と身長も瞳の色もさほど変わらないはずである。
見た目の話だけではない。決まって朝はコーヒーが飲みたくなるとか、とりあえずシャワーを浴びないと気がすまないとか、朝食はご飯よりパンがよい、とかそういう何気ない昨日との共通点に「自分」みたいなものを見出すのではないだろうか。共通点があまりにもなくなると自分というイメージがきっと崩壊してしまう。
しかしながら、「ご飯よりパン」というのは「それすなわち、私」というほど確固たるものではないだろう。パンが世界から消滅してもなおそう言い続けられる自信のあるパン教の信徒以外には考えづらい。
多くの場合、パンがなくなって「しょうがない。ご飯でも食べるか」となり、それを毎日続けていると「ご飯に浅漬け、これがいいんです!」というような人間になっていくのではないだろうか。
このとき、栄養を摂取するだけではなく、思想まで摂取している可能性がある。繰り返される行為(習慣)によって、繰り返し思想を浴びているのかもしれない。
ビーガン食を続けるうちに、動物由来の食を避けて暮らしているうちに、一切の動物を搾取・苦しめることなく生きるというマインドが醸成された人のように。
スキルよりマインドより習慣
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