やりたいこと、やりたくないこと
今、働いている会社において、私が参画した理由の本流とは異なる別の事業にも携わっている。
本来、B事業の立ち上げで参画したにも関わらず、B事業が思った以上に時間がかかり過ぎて、(社内リソースが足りず)既存のA事業にも携わらなければならない状況にある。しかも、責任ある立場で。
A事業をやるつもりで来たわけではないため、いわば「やりたくないこと」に責任を持って臨んでいることになる。考えただけで吐きそうだ。
早くB事業だけでやっていけるようにしたいと思いながら、歯を食いしばって歩んできた5年。未だに目標は叶っていないが、日に日によい方向に向かっていることは救いだ。
さて、そんな「やりたくないこと」たちも、過ぎてみればやっていてよかったなと思えることばかりである。
やりたくないことというのは、きっと苦手意識のあること。当然気が乗らない。なので、手をつけたくない。手をつけたくないから、何となくイメージだけで嫌っている部分がある。
やりたくないことに根気よく取り組んでみると、「やりたくないこと」と思っていたことの固まりが分解される。やりたくないことの中でもやっぱりどうしてもやりたくないこと、意外にやってもいいかなと思えること、苦手だと思っていたけど得意かもしれないことなど、解像度を上げて見つめることができる。何が好きなのか、何が嫌いなのか、何が得意なのか、何が苦手なのか、自己理解が深まる。
これは、好きなことややりたいことをやっていても同じである。
好きなことを突き詰めていくと、1つだと思っていたそれは、やり込むうちに解像度が上がって、実は13個の要素に分かれていたことに気づく。2と3は大好きだけど、7と9と11は死ぬほど嫌いだということに気づき「やっぱり好きじゃないのかもしれない」などと思い始める。
私は、音楽活動がこれに当てはまる。好き過ぎる要素もあれば、嫌い過ぎたり、苦手な要素があって続けるのがすっかり苦痛になってしまった。
やりたいことの解像度が上がって、やりたくないことになったりするのだからそれはそれで面白い。
逆に、やりたくないことの解像度が上がって、「まあやってもいいかな」と思えたりもするのだからこれまた面白い。
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