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役割と私

仕事などの場面において、「私」の意見ではなく「法人の私」としてとか「仕事人の私」として役割に徹して意見することはきっとあるでしょう。「私」はそう思わなくとも、「法人」がそう思っているから、あたかもそうであるかのように話す。そんなことはザラにあるのかもしれません。

反対に、そうした役割を脱いで主張するとき(たとえば、プライベートにおいて主張するとき)、私たちは好き嫌いでモノを言っていることが多いでしょう。それを自然体の「私」の意見だとすると、結局のところは好き嫌いにたどり着きます。たとえ、ファクトを積み上げていくような論理的な話し方をする人も、その奥底はただの好き嫌いだったりするのはないでしょうか。

つまり、役割に徹するとき、人は個人的な好き嫌いに依存した発言は慎んでいるのだと思います。

役割という服

「役割を脱ぐ」という表現をしました。世の中には「役割」を脱げない人が一定数いる。ここで問題になるのが「役割」と「私」の距離です。

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