擬態と適応
マイルドサイコパス 一問一答という記事で、「社会に擬態する」という表現をした。
社会に対して行動的には馴染めている感覚はあるが、認知的(特に情動面)には馴染めている感じがまったくしないこと。それを「社会に擬態する」という風に表現したのである。
記事に対して、下記のような意見をいただいた。
つーかあれだな。みんな何かしら擬態してるよね?少なくとも擬態を擬態と言わないようにしてるのか気づいていないのかのどっちかだとは思う。そうじゃないとしたら擬態の定義がズレてるかも。
擬態を擬態と認識するのって超自己認知強くて、それを表明するのって超誠実だと思うのだがどうだろうか。
(岩谷 成晃 @nariakiiwatani Twitterより引用)
大変興味深かったので、今回は社会への「擬態」について考えてみようと思う。
擬態とは
そもそも「擬態」とは何か。まずは国語辞典を引く。
ぎ たい 【擬態】
①別のものの様子に似せること。
②動物が周囲にある物や、他の動植物に似た形や色彩または姿勢をもつこと。隠蔽的擬態と標識的擬態がある。
(出典:大辞林)
擬態は、昆虫などによく見られる。
隠蔽的擬態とは、体の色や形を背景や環境に似せて目立たなくすることで、捕食者を警戒したり、逆に捕食するために隠れたりすることを指す(蛾、カマキリなど)。
標識的擬態とは、捕食の対象にされやすい生物が、毒や不快な味とそれを知らせる警戒色をもつ生物に似せて捕食者を警戒させるのを目的に、周囲からあえて目立つようにすることである(スズメバチに似せた柄のアブやカミキリムシなど)。
私のいう社会への擬態は、バッタが葉っぱに紛れているとか蛾が木に止まって紛れているのに近く、隠蔽的擬態を指す。
みんな、擬態してる
擬態の意味を確認したところで、話を進めよう。
みんな何かしら擬態してるよね?少なくとも擬態を擬態と言わないようにしてるのか気づいていないのかのどっちかだとは思う。そうじゃないとしたら擬態の定義がズレてるかも。
全面的に賛同する。行動的には馴染めている感覚はあるが、認知的(特に情動面)には馴染めている感じがまったくしない場面というのは誰しもあるだろう。
誰もが社会の中で、ほぼ馴染めている領域と、何となく馴染めていない領域と、全然馴染めていない領域を感じているのは間違いない。
それでも、馴染めていない領域をわざわざ切り取って、「擬態する」と表現する人は多くない。何だか人を騙しているような、自分に嘘をついているような、不誠実な感じがするからではないだろうか。
擬態と適応
いや、「擬態」なんて意識していない(気づいていない)人も少なくないだろう。なぜなら、一般的には擬態も適応も含めて「適応」と呼ばれる場合が多く、わざわざ擬態を切り出す必要性もないのだ。
てき おう 【適応】
①ある状況に合うこと。また、環境に合うように行動のし方や考え方を変えること。「状況に━する」
②〘生〙生存のために環境に応じて生物体の生理的・形態的な特質が変化すること。
(出典:大辞林)
「適応」は行動という観察可能なものだけでなく、考え方や感じ方という観察不可能な認知的側面も含まれる。言葉の適用範囲が広いのだ。
一方、「擬態」は適応と違って、行動という観察可能なレベルの話であり、考え方や感じ方といった認知面までは含めない。
こうして見てみると、擬態と適応の違いは大きい。
擬態を適応の中に含めてしまうよりも、擬態と適応をあえて分けたほうがよいと私は思っている。
なぜなら、そのほうが自己理解が深まり、人生のあらゆる選択の納得度が高まると思うからだ。
とはいえ、そう簡単じゃないらしい。
境界線を溶かす
擬態を擬態と認識するのって超自己認知強くて、それを表明するのって超誠実だと思うのだがどうだろうか。
行動レベルの適応と認知レベルの適応を分けて考えるのためには、自分をメタ認知しないと不可能である。
しかし、それだけでは太刀打ちできない。認知的な適応というのは、すでに「考え方」や「感じ方」が変わってしまっている部分だから、メタ認知したところで取りこぼしてしまう。
自分が認知的に適応できている領域は、生まれながらにしてそうなのか、それとも環境と呼応する形でそうなのか、変数が多すぎて正直なところ判別がつかない。認知的な適応の領域は、解像度を高めようにも無理があるのだ。どうしてもこじつけになってしまうものである。
一方、自分が認知的に適応できていない領域(擬態の領域)については、強い意思を持っているはずである。何がしっくりこないのか、何が嫌なのか、何が苦手なのか。ある程度の思考力と感情を制御する力を持っていれば、自己認知し、言語化もしやすい。
私は、これまで自己認知が得意なほうだと思ってきた。しかし、単にそれは適応より擬態の比率が圧倒的に高いことが理由のようだ。
実際、認知的に適応できる場面が圧倒的に少ないにせよ、私にも適応できている領域がないわけではない(多分)。すでに適応できている領域については、それが何なのかをピックアップできないぐらいに、自分と世界の境目がよくわからない。
適応とは、自分と世界との境界線を溶かしていくことなんじゃないかとさえ思えてくる(「溶け込む」と表現するぐらいだもの)。
社会に適応できている人ほど「自分を見つめること」のハードルが高いのではないか。世界の一部として溶け込んでいるのだから、境界線が見えない。
「私」の輪郭が少しぼやけてしまうが社会に適応できるのと、「私」の輪郭は浮き彫りになるが社会に適応できない。溶けたいのに溶けない領域、線を引きたいのに引けない領域。人間は相変わらず、ややこしいなと思う。
擬態と適応のバランスを考えてみるのは面白いのではないか。みんなの擬態。
岩谷 成晃さん(@nariakiiwatani)、興味深いご意見をいただきありがとうございました。
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