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苦手な仕事に従事する

私はカナヅチである。すぐに水中に沈んでいく。生まれてこの方、水に浮いた試しがない。

今年の3月、6月と水泳に挑戦した。「誰でも泳げるようになる」という言葉と、仕事上の関係(一度その特殊な指導法を体験するという意味)もあって、レッスンを受けることになったのだ。

恐怖を克服し、水を楽しむ

3月に2回のレッスンを受けた。一緒に参加した会社のカナヅチの同僚は、本当にみるみる泳ぎが上達した。水への恐怖心を克服し、水を安心安全に楽しめる場所として認識したことで、眠っていた泳力が覚醒したのである。

一方、私はといえば、そもそも最初から水に恐怖心はない。ただ沈む、ただ泳げない、ただ息ができない、という事実。以上である。水を怖いとも思っていないし、楽しくないとも思っていない。ただ、純粋に技術的に泳げないのである。

覚醒した同僚とは対極的に、高校時代にプールの授業で溺れていたのと何ら変化のない私がそこにはいた。つまり、相変わらず溺れ続けた。

エビデンスとフィードバック

私のようなサイコ野郎には、恐怖を克服したり、楽しくなるようなメンタル的なアプローチは大した効果を発揮しないのだろう。そもそも、メンタルが鋼なのだ。貶されるのはいい気はしないが、別に「がんばったね」とか、そういう声かけは必要としない。浮くとか泳ぐとか息をつぐという技術的な指導だけを必要としている。

そして、これがまた厄介なのだが、科学的根拠を示しながらロジカルに丁寧に説明し、毎回の泳ぎの差異を的確にフィードバックできるようなコーチというのは希少人材である。

そんな希少人材を35歳のカナヅチにあてがうのはリソースの無駄遣いというものである。そもそも「絶対泳ぎを克服したいです!」みたいなモチベーションでもなく、「誰でも泳げるようになります」「だったらやりますか(そのメソッドを体験していみたいし)」みたいなノリなのだ。よい指導ができるコーチは、ぜひ未来のあるカナヅチキッズたちを指導してあげてほしい

一応、コーチの名誉のために言っておくが、私のようなサイコ野郎には効果の出ないアプローチだったが、過去の失敗体験で水が怖くなってしまった人や水の楽しさが分からない人が、恐怖を克服し水を楽しむための指導法としては素晴らしかったと思う。

現に、カナヅチの同僚は、昨日までカナヅチだったとは到底思えないほどに普通に泳いでいた。

あのとき、「ノー」と言えばよかった

2回のレッスンを終え、上記のようなメンタルカナヅチとテクニックカナヅチによる対照的な結果が得られた。実験は以上、一件落着。…と思いきや、泳ぎが楽しくなった同僚が「もっとやりたい」と言い出した。先方も「やりましょう」と返事する。

話が、勝手に進んでいく。私は全然乗り気ではなかったが、仕事の関係もあるし、同僚はやる気だし、わざわざこの空気を遮ってまで断るほどではないかなと思って黙っていた。

あのとき、「ノー」と言えばよかった。

まさか、後にそのように思うとは、このときは想像もしていなかった。

高校体育のプール、再来

6月に、続編のレッスンを2回ほど受けることになった。

3日目のレッスン、前半パートは3月の復習がメインだった。ビート板を使用するなど、身体が沈まないメニューは特別問題ない。そして、後半は前回からステップアップして、いよいよ道具に頼らず生身で泳ぐ距離を伸ばしていく。…のは同僚だけである。

私は身体が沈むので、先のステップに進めない。同僚だけがどんどん先に進み、私は初歩の初歩を効果的なフィードバックも得られずに延々と練習させられている。楽しくない。楽しくないどころか、普通にしんどい。

ふと冷静になって自分を俯瞰する。

あれ?これ、高校時代のプールの授業と同じじゃないか

泳げる人は、どんどん泳いで楽しくレベルアップする。充実感を高め、さらに泳ぐ。一方、やってもやっても何の成長も得られない地獄と向き合わされるカナヅチ人間そして、だんだん物理的にも精神的にも遠くなっていく仲間の姿に疎外感まで覚える

高校時代のプールが苦痛だった気持ちが鮮明によみがえってきた。

3日目のレッスンを終え、2日目の終わりの考察(メンタルカナヅチには効果的、テクニックカナヅチには効果が薄い)は間違いなかったと自信から確信へと変わった。

「どうせ高校の体育と同じなら、明日はもう行きたくないな」という気持ちが芽生えてきた。

論理的矛盾によるモチベーション崩壊

夕方、コーチからメールが来ていた。

「この動画を明日までに、何度も観て来てください」

そこには、水泳のYouTube動画が添付されていた。

「特訓かよ」

ますます行きたくなくなってきた。

ここでも一応コーチの名誉のために言っておくと、コーチも私が泳げるようになるために必死に考えてくれていたのだと思う。残念ながら、私は思いよりも、ロジカルで的確なフィードバックを必要としていただけなのだが。

さて、送られてきた動画を観る。

「…あれ、これ指導されてた内容と矛盾してるやん。ダメな例として描かれている身体が沈む泳ぎ方をむしろ率先して意識しながら練習してたやん」

延々と沈む練習をしていたことに気づいた瞬間、モチベーションが完全に枯渇した。「明日はもう休もうかな」という気持ちがいよいよ現実感を持ち始めてきた。しかしながら、仕事の関係もあるし、同僚は楽しみにしているし(私が休めば1人になるし)、当日ドタキャンなんて「社会人として」いかがなものか。

あと1日、あと1日だけ…。この苦しみを耐え抜けばいいだけだ。うん、頑張ろう。そして、閃いた。論理的矛盾があるのなら、いっそ水泳のYouTube動画を観まくって、ロジックを頭に叩き込み、コーチを無視して勝手に練習すればよいのだ、と。

YouTubeには素晴らしい水泳の解説動画がたくさんあった。科学的でロジカルですごく分かりやすい。

「泳げるか否かは基本姿勢がほとんどすべて」「基本姿勢は骨盤後傾」「腹圧で重心を前にコントロール」「伸びればいいってものじゃない。むしろ身体が反ってしまう」「泳ぐときは息を止める」「クロールのストロークは肘を立てて面積を増やす」「手で後ろに水をかくのではなく、肩甲骨の動きで肘を前に出すようなイメージで前へ進む」「顔や目線は完全に下に置くこと。前を見ると頭が浮いて身体が沈む」…その他諸々。

「そんなの聞いてないよ」という目からウロコのロジック祭り。1つ1つ意識しながらメニューを組んで練習すれば、自力で泳げそうな気さえしてきた。もちろん、すぐには泳げないだろう。整理したところ克服すべき課題は9つほどある。どう考えても練習回数が必要だ。

明日、コーチの声を無視しながら、いくつものポイントを意識しながら一人で勝手に泳ぐ練習を…なんて、ノイズまみれで到底不可能だろう。

モチベーション枯渇からの、大嫌いな気合いと根性で、なまじ知識を詰め込んだあたりで完全に燃え尽きた。…もう無理だ。明日は行けない。誰がなんと言おうと行かない。というか、私の身体が玄関のドアを開けてくれる気がしない。期待感がまったく持てない。社会人失格でもなんでもいい。万が一、何かトラブルになって会社をクビになっても構わない。行きたくないものは行きたくないのだから、行かない。

「泳ぎません。リタイアします。」

今さら遅いけど、6月のレッスンの話が決まりかけたあのとき、場の空気を壊してでも言えばよかった。あのとき、はっきり「ノー」と言えばよかった。

不思議なもので、人間は心の底から行きたくなくなると体調が悪くなる。適応障害みたいな感じか。ストレスで眠れず、一睡もできないまま朝を迎えてしまった。もはや、天変地異が起こって今さらやる気が湧いてきても、とてもじゃないが参加できる身体の状態ではない。

最終日、体調不良で欠席。

苦手なことを「やってみる」はOK

今回の経験によって、得た気づきは3つある。

1つ目は、乗り気じゃないことはどんなにノリが悪いと思われても断るべきだということ。うまくいかなかったときに、ストレスのやり場がなくなる。他者のせいにしたくなる。でも、結局なし崩し的にでもそれを選択した自分の責任である。自ら積極的に選んだ運命でなければ、心は簡単に挫けてしまう。

2つ目は、苦手なことを「やってみる」のはたまにはよいということ。社会人は、学生時代と違って苦手な教科を強制されることはない。自分が得意な領域で戦える。ともすれば、一方で自分の殻に閉じこもってしまいがちである。時々、自分の外側(特に、敬遠している分野)に触れること。体験としては決して気持ちのよいものではないが、違う視点から見れるようになったり、視界が広がったりする。

3つ目は、苦手なことに継続的に関わるのはよくないということ。2つ目の効果はそう何度も得られない。むしろ、苦手なことに浸かり過ぎると、自分が無能な存在に見えてくる

苦手なことを「継続的にやる」はNG

たとえ、3回の水泳レッスンであっても、スイスイ上達する人間と、まるで成長しない人間がいる。怖いのは、ただ「それ」について無能なだけなのに、「私」という存在が無能だと錯覚し始めることだ。これはとても危険である。苦手なことを継続的にやり続けると、存在としての無能感にさいなまれ、自己効力感、自己肯定感が破壊される。

人間には、どう考えても向き不向きがある。(社会システムが機能しているのなら)向いていることに集中して取り組んだほうが合理的というものだ。共産主義社会ならまだしも、競争をベースにした資本主義社会において、苦手なことで戦うというのは単なる自殺行為である。

それは、私が株式会社スイミースイミーの水泳部門に配属されるようなものだ。無能の烙印を押されるに決まっている。3回の研修で業務をスムーズに開始できる同期と、研修を受けても一向にできる気がしない私。1年もすれば圧倒的な差が開く。それが5年、10年とすれば…恐ろしすぎて目も当てられない。

「苦手」を仕事にしない

今、これを読んでいる人の中には、もしかしたら自分の苦手なことを仕事にしている人がいるかもしれない。ここでいう苦手なこととは、分かりやすくいえば社内の上位30%以内に入れそうにない領域の仕事である。また、上位10%以内なら得意と思ってよいだろう。

たとえば、20名いる営業部にあなたが所属しているとしよう。6位までに入れないなら、苦手だと思ってよい。厳しいように思うかもしれないが、私個人の価値観ではなく、資本主義社会は実際に厳しいのである。

努力してもまともに泳げない人間が、スイスイ泳げてしまう人間に勝てるはずもない。勝てないゲームは、頑張ったところで勝てない。とはいえ、頑張らないと惨敗する。惜敗あたりが頭打ちの世界でせっせと努力する。これぞ、まさしく無理ゲーである。

苦手なことを「やってみる」には新しい気づきに出会えるが、苦手なことを「継続的にやる」のはどう考えてもあなたという才能の無駄遣いである。

今、もしも苦手な仕事に従事しているなら、悪いことは言わないのでなるべく最短のうちに仕事を変えよう。今いるところで粘ったところで、ろくに成果は出せないのだから安心して飛び出してよい。

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