自分のペース
「自分のペース」といえば、私が子どもの頃は「わがまま」とか「周回遅れ」とか、どこか後向きなイメージが強かったような気がします。時は流れて、最近は「自分らしさ」みたいなものを想起させる前向きな言葉になってきたように思います。
集団の中の自分ではなく、自分は自分なんだという時代になってきたんだろうなと。
私は他者のペースで生きていくのに圧倒的に向いていないようで、他者のペースの強要をなるべく避けて生きていました。結果、20代の頃は大変アンダーグラウンドな暮らしをすることになりました。ピンチヒッターで参加した合コンでは、自己紹介以降全無視されてしまうほどの生活力でした。
そんな私も、社会で名乗っても人間として扱っていただけるような生活圏にワープしてきた感じがします。人の縁は不思議なものです。キャリアなんて、予定して形成できるものじゃないよなと。
話を戻します。
30数年間のさまざまな取り組みを思い出してみると、長期的に他者と一緒に何かをつくりあげていくことはいつだって難しいと感じます。
短期的なもの、たとえば体育祭や文化祭なんかは解散する日が決まっているわけですから、短距離走のようにゴールに向かって駆け抜ければよい。たとえ、誰かが遅れていても数メートル、数秒の世界です。
一方、長期的なもの、たとえば恋愛や事業などはゴールのないマラソンみたいなものです。離れ始めると、何キロメートル、何十分の世界です。
競技がまるで違うんですね。ペースの乱れをどのようにフォローし合うかは、その方法も異なるはずです。
何かのプロジェクトを立ち上げるとき、スタートは誰だって似たような気持ち(を共有したような気持ち)を持っているものです。
ただ、人間は365日24時間、同じ経験をし、同じ解釈をするわけではありません。時間の経過とともにズレが出てきてしまう。
それは、モチベーションかもしれないし、スキルかもしれない。それより致命的なのは、やっぱりペースの乱れなんです。
よくバンドが解散するときに「音楽性の違い」みたいなことを言ったりしますが、多分そう言いたいだけでしょう。確かに、音楽性の違いに帰結するわけですが、そこに至るまでのズレやねじれというのが本当の理由なんだと思います。
そして、それは意外と些細(に見える)なことでもあります。
たとえば、30歳の誕生日を迎えたとか、彼女との結婚を意識するようになったとか。
バンド活動を今のままのペースで続けることができないことが頭によぎって、よぎってよぎりまくっているうちに、だんだん音楽性も気に食わなくなってくる。そして、音楽性の違いがあるのなら、音楽を一緒にやる理由はないよね、ということになるのです。
一緒のペースで走れないと思った途端、チームの粗が見えてくる。バンドを例にしましたが、何かを自分たちで立ち上げる場合、全般に言えることだと思います。
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